想像を絶する・演出ノート

「想像を絶する」の稽古が始まっている。

綾門くんの本は今までかなり言葉の分量が多く、自らの心情を語る言葉や他人へ対する攻撃にすごく饒舌で、比喩や悪罵の乱れ撃ちのような様相を呈していることが多かったが、今回はかなり意識的に言葉を絞って書いている感触がある。

制作中の戯曲は綾門くんのnoteで読めるようになっている。

ので、今まで綾門くんの戯曲を何度か演出したときは、その質量を限られた上演時間の中でどうこなしていくかというような大変さがあったが、今回は上演時間に対して多くも少なくもなく、それを観客に届けること、そのとどけ方に集中していい、というような感じがする。もちろんこれは今まで以上に役者や私が試されていると言うことでもあると思う。

今回の役者は「想像を絶する」には鶴田理紗さんに出てもらっていて、鶴田さんは例えば私のアイデアに対するレスポンスがはやいし、かなり自発的にやってくれて、自分の意見も投げてきてくれて、ものすごく助かっている。じっくり、二人でアイデアを出し合いながらクリエイションが出来ている。

今回、かなり言ってることがストレートなことで、綾門くんの本って確かにいつもストレートなのだが、今回は質量で攻めていないので、客が聞き逃したり、するりと聞いてしまわないように、意味を脱臼させたり、分解させたり、別の意味を持たせたり、できないか、あるいは、その中に秘められた攻撃性のようなものをもっと部分的に際立たせられないか、ということを考えている。何かの説明になってしまわない、観客自身が能動的に聴ける台詞ってなんだろうということ。想像力を、能動的に働かせながら、演じたり、観たりできる演劇。それはいつも考えてはいるんだけど、今回は特にそれを、意識する、というレベルだけではなく、「どう」やるかというレベル、実際の演じる手法‐台詞みたいな、具体的に形になる、わかりやすいレベルで出せないか、と思っている。演奏をやり方自体を、今までのお布団とは少し変えてみるというような感じだ。その綾門くんの言葉の演奏方法を、ひとつひとつ吟味していっている。意味を一つに絞らずに、受け取る側の選択肢をなるべく増やして、それぞれの像が観客の頭の中で結ばれるようなこと。これはいろいろな作家や役者や演出家がいろいろなやり方で試してきていることではあると思うけど、それを自分たちなりのやり方で翻訳して、自分のものにできないかと考えている。

タイトルが「想像を絶する」というめちゃくちゃ強い言葉で、こんな言葉をタイトルにつけてしまえる綾門くんの心ってめちゃくちゃ強いなと思うのだが、この言葉の求心力というか、持っている力がかなりでかいので、そこに囚われたりし過ぎず、あくまで作品の中身をよくすることを考えてつくっていきたい。

あと、これは最近の、かなり個人的な問題意識だが、考えていることに、役者の個人的なエピソードや、役者に個人的な発表を考えてやってもらって、それを作品という形に持っていくというタイプの作品ではないものをやりたい、と思っている。もちろん作品の中で、そういう役者の持つ個人的なスキルみたいなものが輝く瞬間はあると思う。でも、それをメインにすることは私は怖いというか、私はそこまで役者にかなり負荷をかけるような、何らかの「圧」をかけて表現を出力させるという、暴力性を孕むことをやれるほど、自分の心が強くなかった。演劇ということは多かれ少なかれ他人に負荷をかけざるを得ないことだが、他の表現よりも、その人に、無理をして自分をさらけ出させようとしてしまう危険性を持つ可能性が大きいことをやるのはやっぱり怖い。事前に演出と役者の間できちんと契約というか、コンセンサスが結ばれていれば、大丈夫だとも思うけど、やっている途中でやっぱり嫌になるということも、あるんじゃないかと思う。やっているうちに最初は嫌だったけど、作品になったら肯定的に捉えられるようになった、というのも、あるのかもしれないけど、そういう風に捉えられるようになることが果たしていいことなのか?とも思ってしまう。そういった上演を評価するときも、本当にそれはちゃんと役者の手柄になるのか?演出家の手柄に回収されてしまわないか?ということも考えてしまう。

そういう作品に参加する役者だってただ自分のエピソードを本当に包み隠さず喋るわけじゃなくて、ある程度嘘を交えたり、言わないことがあったり、自分の心というか、大事な部分を守りながら、表現をしていくのだと思うけど、そうやってうまく自分の心を守れる人ならいいけど、自分の心を守るのが下手な人だっているんじゃないかと思う。そういう人を守ってくれるような人というか、システムというか、ケアだったりはあるのか。結局自己責任というか、そういうところに回収されちゃうんじゃないか。でも、自分の心を守るのが下手な人だって、自己を表現していく機会が必要なはずだ。

そういうものが流行ってしまえば、結局おもしろいことやったもん勝ちというか、面白いエピソードを持っていたり、面白い話術を持っていたやつ勝ちというか、さらけ出したもの勝ちみたいな感じが生まれてしまうんじゃないか、という危惧があって、私は全然自分は面白いこともできないし面白いエピソードも面白い話術も持っていないと思うので、そういう流れの中では生きていけないだろうし、そうではないことをやるしかないし、やっていきたいと思う。すごく個人的なレベルでそういうものが私は嫌なんだと思う。そういうものに頼らないでも、演劇ってできるんじゃないか、むしろ私はそういう自分をさらけ出した人が強さを獲得するようなことを重視する流れに反抗したいと思って、演劇をやっているのではなかったか。特技がないから演劇をやっているのではなかったか。そうではないやりかたで、きちんと役者個人の良さが見せられるような表現というのを模索したいと思っている。

やっぱり個人的には、そういう「ナマ」の強さを前にすると、いや、だからこそ「フィクション」でしょ、と言っていきたい気持ちがある。それはストーリー性のあるもの、という平面的で単純な意味には回収されない、もっと根本的なところでのフィクションということなのだが、そういうものを一層信じて、疑って、しかし信じていかなきゃと思う。ナマのものが強いのなんて当たり前で、そんなことは私もわかる。だからって、強いものを強いまま利用しても、そんなことは当たり前なんだよと思う。でも、私は「フィクション」だって本当は強いのだと言いたい。フィクションだって、平面の中には収まらない、無加工の世界の質感を露出させるようなことが全然できるはずなのだ。向こう側のナマというか、フィクションだけの『ナマ』があるはずなのだ。その向こう側というのも、私たちがただそのような距離を感じているだけで、本当は同じようにこの世界に混然一体として存在しているはずのものなんだと思う。

未整理なことを書いてしまったし、私の中で何か確固たるポジションがここに書き連ねたことについて定まっているわけではないが、最近はこういうことをベースに考えながら稽古している。

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Kouki Tokuchi

哲学シリーズ

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