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樋口あゆみさん寄稿「ブラックアウトのときに、なにを感知したのか」

システマを学ぶ樋口さんが2019年に寄稿してくれた内容を転載します。
2017年の富士キャンプでの出来事を執筆してくれました。

寄稿「ブラックアウトのときに、なにを感知したのか」
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システマ東京ガジェータ通信読者のみなさま、初めまして。あるいは、こんにちは。システマ東京に通い始めてから2年くらいの樋口あゆみと申します。

おととし夏のミカエル合宿に参加された方は覚えておられるかもしません。またはDVDでご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、私は合宿の最中の「胸の上に5人が乗る」ワークであわや気を失いそうになったところを、世界のマスターたちに次々助けられた経験があります。当時も無事起き上がった後、参加者の前で「何が起きたのか」を話す機会を与えられましたが、直後のことで一体自分に何が起きていたのか、うまく言葉にできてはいませんでした。私にとっても貴重な経験でしたが、「これは自分で分析できる限りのことを共有することで、他の方にも役に立つことがあるのではないか」と思ったので、それについて少し書きたいと思います。

簡単に経緯を書くと、次のようなことでした。「胸の上に5人が乗る」ワークをやっているときのことです。もともとこのワークは一番下になる人と、二番目になった人の負担が強く、とりわけ胸に乗られるので、呼吸をするのが難しい。恐怖心も結構くるものだということでした(とはいえ、そのこと自体は後になって知ります)。私の場合、三人目が乗ったあたりで、いっぱいいっぱいになり、次に乗ろうとしていた方が気がついてくれて「ストップ」をかけてくれました。

そのときは、息が上がっていたものの、横になりながら、「目を開けているのがつらいな、でも横になって休みながら呼吸を整えて居れば、大丈夫かな」という程度でした。近くにエドガーがいたので、横になったのを見て、すぐに来てくれ「大丈夫か」と聞かれたときにも、片手をふって「大丈夫」と答えました。

が、その後から段々と朦朧としてきます。それにしても本人は朦朧としてるので、逆にあんまり危機意識も恐怖心もなかったように思います。ただ、乗っかられたことによる恐怖というのは微かに意識に残っていて、それに誘発されるように、身体の肝臓のあたりから黒い塊がせり上がってくるような感覚はありました。

その感覚があった前か後か定かではありませんが、ミカエルが近づいてきて、頬を強めに何回か叩かれました。そのときも、叩かれていることは認識しているのですが、ぼーっとしていました。それで「マズイ」と思われたのでしょう。次の瞬間、ミカエルからペットボトルの水を口に含んだものを、シャワー上にして顔面にかけられました。同時にダニールにも足裏のツボをかなり強く押され、このあたりで漸く意識が戻ります。とりわけ足裏がかなり痛かったので、「痛い、痛い。起きる、起きるからやめて!」と言いながら半身を起こしました。そして起き上がった背中へ、ミカエルから二、三発バンバンと叩かれます。「なんか濡れているし、痛いし、なんじゃこりゃ~。」と何をされたのか混乱しているなか、北川さんと文さんが駆け寄ってくれて、「よかった」、「いい経験したよ」と次々に言ってくださったことを覚えています。

 自分がなにを経験したのか分かっておらず、とりわけ焦点が合わないような、ふわふわしている状態のときに、こうした強い肯定の言葉をかけられたのは、振り返ってみるととてもよかったと思います。事態を咀嚼できないなりに、とりあえずは肯定していいのだという判断を身体的にすることによって、精神的にも安定できたからです。

感情に喰われる、ということは起こりうる

 少し経ってから振り返ったときに、分かったことはふたつあります。一つは、「人は、過去に自分の身体にため込んだ感情に喰われるということはあり得るんだ」ということ。もう一つは、「精神的な現象を、物理的な衝撃で相殺することができる(ただし、熟練した人になら)」ということでした。

 気をつけてほしいのですが、私はとりたてて神秘的な話やスピリチュアルな話をしようとしていません。以下の話は、私自身が、「そのように理解した」経験的な話として受け取ってくださると有難いです。半分くらいは、個人的な、感覚的理解ですが、もう半分くらいは科学的に説明可能なのだろうと思っています。ただ、まだそのための言語や、実験が足りていないだけで。

 前置きが少し長くなりました。

 一つ目は、経緯で書いた「黒い塊がせり上がってくるような感覚」の話です。読んだ方はもしかしたら「恐怖」と思われたかもしれませんが、私自身の理解は違いました。恐怖もあったかもしれませんが、それよりも過去に自分が感じた悲しみや、怒り…とにかく、そういった溜め込んだ積もり積もった負の感情が、もとの感情の形態を忘れて圧縮されて固まってしまったもののようでした。

 単に過去の感情のフラッシュバックであれば、そのときの映像が浮かぶものですが、それがまったくなかったので、そう理解せざるを得ませんでした。要するに「なんのことか分からないけど、間違いなくこの塊は自分から出てきたぞ」ということだけは分かる、という感じです。その塊が、どんな顔をしているのか分からない。ただ、とにかく圧縮されていて、負の感情だということは分かりました。「長く溜め込んでいると、感情はこういう変形の仕方をするんだな」ということをはじめて知って、それはすごく興味深いことでした。

 また同時に、これはあくまでも直感的にですが、「あの塊に飲み込まれていたら、本当に気を失っていただろうな」とも思いました。あれがワーク中であったからよかったですが、たとえば地震で本棚の下敷きなどになって圧迫されたときに、同じような現象が起きていたら、自分は確実に過去に溜め込んだ感情によってパニックで気を失い、救助される機会を失って死んだだろうな、とも思いました。

 そう考えると、ワークで上に書いたような状況を体感できたことは、非常にありがたいことでした。「確実にそうできる」とは言えませんが、似たようなことが起きたときに今度は何が起きているか分かるので、状況を冷静に俯瞰することはできるでしょう。人間は何が起こっているか分かるだけで、困難な状況の解決は半分は済んだも同然です。進んで自分を追い詰めたいとは思いませんが、システマの合宿で、そうした一種の極限状態を疑似的に味わえるのは、一つのゆるぎない価値だと思います。

 しかしそうやって非常事態のときに、身体がガチガチだったり、感情を溜め込みすぎていたら、やはり自分だけで対処するのは難しいでしょう。だから日頃から溜め込んではいけない、いざとなったときに飲み込んだ感情に殺されるのは自分なのだ、とも思いました。

ミカエルが追い打ちで背中を叩いた理由

 もう一つは、ダニールに起こされた後に、ミカエルに追い打ちで叩かれたことに関係します。ダニールのツボ押しですでに意識は戻っていたので、「なんで叩かれたのだろう」、「あれは何だったのだろう」と直後は思っていました。

 考えてみると、思いたることが一つだけありました。身体の内側からせり上がっていた黒い塊が、気がついたら全くなくなっていたのです。ミカエルが何を感知していたのか、今となっては分かりませんが、明らかに背中の殴打によって、私自身が精神的なショックを避けられたんだなと気がつきました。

 おそらく皆さんも、システマや身体を動かした後の爽快感によって、日常的な鬱屈やストレスを発散した経験があると思います。それをもう少し大げさにして、他人からの物理的な衝撃で同じ作用をやってもらった……のだと今は理解しています。

 考えてみれば、人に乗っかられて恐怖心を感じた挙句、気を失いそうになったというのに、回復して十分もしないうちに、立ってみんなの前でそれについて話す…というのは、結構な芸当です。下手したらトラウマになっても仕方ない経験ですが、そうしたものも全くありませんでした。現に特に「システマ怖い・嫌い」とも思わず、足が遠のきもせず、いまも楽しくシステマをさせてもらっています。

 それは私自身がすごいということでは全然なく、マスターたちによって非常にきれいに起こされたのだな、と気がつきました。当日も北川さんに「大きな体験があった人に、すぐその場でみんなの前でシェアさせるのは、そのことをその人に抱え込ませない意味があるんだ」と言われましたが、殴打にも同じような意味があったのでしょう。

 もちろん言うまでもなく、そのタイミングや回数、衝撃の大きさなどは熟練した人だからできる芸当だと思います。その意味では、モスクワをはじめとしてマスターたちのセミナーや合宿は、安心して挑戦ができる場でもあるのだ、ということもできそうです。

 ところで、なぜペットボトルの水をそのまま顔面にかけるのではなく、口に含んでかけられたのかは、謎のままです。この行為について、なにか解釈をお持ちの方がいたら、どうぞ教えてください。

(了)

筆者プロフィール
樋口あゆみ:中学生のころから気ままにアシュタンガ・ヨガを10年ほど続けてきたものの、対人競技をやりたくなり、『最高のリラックス』を読んでシステマに出会う。東京大学大学院 総合文化研究科 博士課程。専攻は社会学(コミュニケーション論、組織論)。寄稿記事に『組織社会学から見た「ほぼ日」』(http://www.dhbr.net/category/soshikishakaigakukaramitahobonichi)など。

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