『他者を通した自己認識』という考え方

他者を通した自己認識

ヤマグチです。

今回は、最近よく考えている、『他者を通した自己認識』という考え方について、メモがてら書いていこうかと思います。

※あくまで自分の中での解釈、あるいは、自分が自分に対して思うことでしかないということを、予め断っておきます。

ここではその根本である、自分という存在は、他者の存在があってこそ成立するという部分について書いていきます。

もしこの世界に、僕が一人だけが生まれ、存在している場合、僕は僕の存在を認識することはできません。

つまり、生きていると実感することも、何かを思うことすらもできないと思っています。

しかし、そこに僕以外の何か、つまり他者という存在が現れたとき、他者を認識した直後、他者以外の何か、つまり自分を認識するのではないかと思うのです。

そう思えば、自分という存在は他者の存在がなくては生きていくことすらできない、という考えにたどり着きます。

すなわち、自分は他者を含めた周囲の環境に生かされているのだと。

自分が生かされているのは、周りのおかげであり、周りに感謝して生きていくこと、もっと言えば、生かしてくれている他者に自分が貢献していくことが、僕の生きる意味なのではないかと、そう思うのです。

これこそ僕の軸、信念であり、他者貢献できなくなった時点で僕の存在意義は消滅、というより、僕の存在が消滅することになります。

自分という存在は、一人では生きていけないし、従って、無力であるということになります。

「自分はひとりで生きていけない」という事実

「自立した人間」
よく、そんな言葉を耳にします。

自立とは、自分以外のものの助けなしで、または支配を受けずに自分の力で物事をやっていくこと、という意味だそうで。

僕はこの、自立という言葉に対して違和感を感じることが多い。

それは、この言葉の意味というより、自立という言葉を自分ひとりの力で生きていくという風に使われている(と僕が感じる)世の中への憂いかもしれないけれど。

結論から言うと、自分という人間はひとりで生きていくことなどできないと思っているわけで。

つまり、自分にはなんの力もないから、周囲のお陰で生きていけるんだ、という意識を持っています。

もっと言えば、僕は周りに生かされているから、周りのためになるようなことをすることが、僕の生きる意義だということです。

他者とは何か

しかし、僕の言う他者とは、一体何なのか。

それは、自分を生かしてくれているという認識を持てる仲間、つまり同類(人間)、それも、自分の目の前(というより、関係性が物理的・心理的に近い)の人たちのことを指します。

世界には70億を超える同類がいます。

そして、その(自分を含めて)同類が生きていけるのは、同類以外の存在(自然や、他の生命体など)があるからです。

そんなことを考えていると、キリがありません。

だからこそ、せめて自分と関わる人たち、その瞬間瞬間で目の前にいる人には、その人のためになることをやりたいと、そう思うのです。

なぜなら、無力な自分では、生かしてくれていると感じる範囲が狭く、多に対して貢献できるほどの力もないと思っているからであり、目の前の人を大切にできないのに、まだ出会っていない、それも出会うことがあるかどうかすらわからない人たちのために…など、口が裂けても言えません。

「その人のために…」とは何か

つまるところ、僕が今やっていることは、周囲への感謝ゆえの他者貢献です。

しかし、その他者貢献というのは、結局のところ何なのか。

それは、人・モノ・コトの間、もっと言えば、僕の周りの人・組織・コミュニティ内外のスキマを埋めることです。

僕の原動力は、他者からの感謝です。
俗に言う承認欲求に近いものだと思います。

というのも、前述したように、僕という人間がそこに居る、と認識できるのは、他でもない他者が、僕の存在を認識してくれるからでしかありません。

そして、僕の存在を認識してくれる他者に対して、何らかの形で貢献したいと思うのです。

貢献するとは、僕の中では、他者の役に立つことであり、他者の役に立つためには、その「役」になる必要があります。

それは、他者から自分がどう見えるか、どういう位置づけにあるかを把握し、他者の視点に立つことで、他者の役に立つことを考え、自分の立ち位置を把握する必要があるということ。

要するに、自分が他者にとってどう見えているか、自分に何を求めているのか、なぜ求めているのか、そもそも何かを求めているのか…などを把握しなければなりません。

一言で言えば、他者への同化→適応だと思います。

人・モノ・コトの間、もっと言えば、僕の周りの人・組織・コミュニティ内外のスキマを埋めることを言い換えると、

僕の周りの人たち、あるいは組織やコミュニティの内外にある課題や問題を見つけ、本人たちでは解決できない、あるいは解決するよりも優先順位が高いものがある場合、僕が解決の糸口になるようなことをする

これが、僕の行動指針であり、他者の役に立てることだと思っています。

ヤマグチが愛媛でやってきたこと

ここまでの話を一旦まとめると、

他者を通した自己認識
→自分は一人で生きていけない、無力な存在である
⇒自分が生きていられるのは、他者の存在のおかげ
⇒他者への貢献こそ、ヤマグチの生きる意義
⇒スキマを埋める活動をする

となります、たぶん。

つまり、傍から見れば、やることがコロコロ変わり、何をやっているかよくわからない存在ってことになりますね。

よく言われます。

上記の、スキマを埋める活動というのは、その瞬間瞬間にいる目の前の人に対して、その人が求めていることになります。
つまり、他で求められて得たことを、その他でも転用することも普通にあるわけです。

そういえば、こうなったキッカケみたいなものを話してなかったですね。

僕が変な活動を始めた当初、自分の力の無さを実感したのと、それゆえ、周りにしてもらうことに対して応えられないことの多さに絶望していた時期がありました。

何も突き抜けたものが無い、というやつです。

熱量はそれなりにあったけど、周りを巻き込む力がなかったと、まあそういうやつなんですけどね。

だからそこで、巻き込むのを諦めました。
(その時点では)

巻き込まれよう!と、巻き込まれる存在になればいいというやつです。

めっちゃ他力本願…笑

でもまあ、いずれ巻き込む側になる、というか、何かをやるときにその資質がないと無理だな…と思うことがやはり多い上、自分の呆れるほどのバカさゆえ、耳で聞いたり何かで情報を得ても、それを実感する場面がないと自分のものにできないことが明らかなので、巻き込まれる側でたくさんの経験をさせてもらおう!と思った次第ではあります。

でも、何やかんや、これが俺の生きる道なのかなと実感しつつあります。

話を戻すと、今年4月に箕輪編集室というオンラインコミュニティに属していたとき、動画やデザインを使う場面があったのですが、たまたまそれができる学生(というより、お願いする学生)が居なくなったことで、案件を流す学生と仲が良かった僕に頼んできたのがきっかけで、動画とデザインに手を染めることにしました。

もちろん初心者なので、そこから始めたということになります。

ちょうど2ヶ月後、愛媛の仲間がコロナ禍で新しいことを始めるタイミングになり、動画とデザインという、箕輪編集室で得たものを愛媛の学生コミュニティに転用できる気がして、実際にやり始めたことがありました。

現に今、それでお仕事を頂く機会もあったり、周りの学生には、動画とデザインをする人として認知されています。

そのおかげか、何かを始める仲間が、動画とデザインができる僕を巻き込んでくれる機会も増えました。

また、僕がコンテンツをつくれないから、コンテンツをつくりたい人たちを巻き込んで、動画とデザインをつかえる場所をつくったこともあります。

これが、愛媛で僕がやっていることです。

愛媛に転用できたのは、そこまで関係性を築き上げた仲間が居たことが本当に大きい。

これは常々言ってますが、本当に周りのおかげなんですよね…

おわりに

というわけで今回はここまで。

本当にいつもありがとうございます…みなさん…

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