山田おじさん (5)

 従業員の食堂室にはたくさんの人たちがいます。食事をする以外にも休憩所も兼ねていいて、煙草を吸ったり、お茶を飲んだり、スポーツ紙を読んでいたりします。山田おじさんのような皿洗いをしているアルバイトや社員の他にも、清掃員や事務員やポーターやウェイターやウェイトレス、料理人などホテルに関わる様々な人たちです。


 山田おじさんが休憩しているとき、社員の塩尻さんが中年男性と食堂室に入ってきました。従業員は制服や作業着姿なので、ワイシャツとズボンと肩からショルダーバッグを下げた中年男性は目立ちます。テーブルを挟んで二人が椅子に座ると、山田さんからは塩尻さんの顔と中年男性の後ろ姿が見えます。年齢は同じくらいですが、頭頂の頭皮は山田おじさんのほうが隠れていました。彼は猫背で俯きつつも、塩尻さんに話しかけられると顔を上げて答えます。そして言い終えるとまた顔を伏せるのです。常に人々の会話や食器洗浄が聞こえるざわついた食堂室のなかでも、二人の会話は山田さんの耳に届いてきます。どうやら面接のようです。


「電話を持っていないんですか? 携帯電話も。急に連絡する場合もあるので、電話がないと厳しいかもしれませんね」


 塩尻さんのしゃべり方から不採用の空気が感じられました。


 山田おじさんは固定電話も携帯電話も持っていません。友達がいないので必要ないし、実家から逃げるように都会へ出てきたので、両親の声すら聞きたくない心境のまま生活してきました。ホテルの皿洗いに就く以前に、様々なアルバイトの面接に行っても不採用がくりかえされたのはこれが原因だったのでしょうか。


 いままで電話を持つことにまったく興味がなかったのに心の中で変化が起こってきました。働き口を探すときに連絡先がないと採用されないというまじめな意識など微塵もありません。


 山田おじさんの脳裏に浮かんだのは、五十嵐久美子さんの後ろ姿でした。

 ただのおっさんがたとえ叶わぬ夢を見るとすれば、その原動力になるのはやはり恋愛なのでしょうか。久美子さんから電話番号を聞くことなど、天地がひっくり返ってもできそうにないのに、山田おじさんはわずかばかりの期待を無駄に膨らませてしまったのです。

 その日、アルバイトの帰り際に駅前の家電量販店に立ち寄りました。華やかな電気街に集う人々は夜のライトに引き寄せられる昆虫のようで、山田おじさんもそのひとつでした。一階にある携帯電話の売り場の入り口では、メーカーの名前やロゴの印刷された半被を着た人たちが声をあげて商品のアピールをしています。


 山田おじさんは人混みが苦手でした。華やかな場所も苦手でした。知らない人と会話をするのはたいへん苦手でした。


 しかし、国民のふたりに一人が携帯電話を持っている時代に、大の大人が電話を持っていないという境遇はあまりにもさもしく、他人からすれば連絡する手段がないというのは周囲から隔絶した内向きの世界に閉じこもって孤独に生きることであり、なによりも新しい出会いをつなぎとめる道具がない、ということなのです。


 山田おじさんは、上記のような高尚な思考はまったく持ち合わせていません。あわよくば五十嵐久美子さんとお付き合いできる千に一度の奇蹟を起こすために、自分自身に電話番号が必要なのだ、という程度のあざとさしか頭の中にありませんでした。


 ちなみに、この物語ではちょっと昔の日本が舞台になっているので、携帯電話というのはスマートフォンではなく、いわゆるガラケーやPHSのことを指しています。まだインターネットが普及し始めで、WEBメールなどなく、掲示板やブログが誕生しはじめの頃のお話です。


 そんなこんなで、通信料金の安さで選んだPHSを手にした山田おじさんは、自宅のカラーボックスの上にうやうやしくスタンド式の充電器を備えて、携帯電話の本体を差し込みました。液晶パネルやLEDライトの点灯を眺めていると、なんだか自分が成長したような気分になれたのでした。

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Cubeべぇ。

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新しいデスクトップパソコンが欲しい。

ステーキ!すき焼き!焼き好き!!スキ、スーキ!!!
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Cubeべぇ。

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