「好き」を辞めた話。

「推し事」という言葉がある。「お仕事」とは別に、オタクが自分が好きなコンテンツにお金と時間を注ぎ込むことだが、昨今どのジャンルのオタクでもその「推し事」に疲れている人が多い印象だ。

かく言う私もその「推し事」に疲れてしまった人間だ。気になるジャンルを見てもすぐに冷めてしまったり、周囲の人間と話を合わせる為に精神的な無理をしてしまう。
結果、「作品は好きだがそのジャンルを見たくない」という気持ちが出てきてしまい、その感情から逃れる為にまた新たなジャンルを開拓してしまう。

そうこうしているうちに、だんだんと「好き」だった「推し事」、そして「アニメ・ゲーム」といったカテゴリーに対しての興味自体がなくなってしまい、そこにあったはずの「感動体験」もなくなってしまった。

私は元々、衣食住どれに対してもあまり頓着がなく(衣は仕事柄Tシャツ黒スキニーしか着れずそれでいいし、食は肥満恐怖症と胃腸障害で食べれないし、住に関しては家庭が遠因で最低限文化的で有ればOK)
また、化粧や医療に関しては職業柄知識欲以外がないので社会人として最低限であればいいという考え方だ。
ついでに昨今のステイホームによって交際費も減っているし、カミングアウトするが、アセクシャルなので男女関係による出費もない。
自分の為に使うお金(可処分所得)が有り余ってしまっている。

老後やいざという時のお金があるのは良いことではあるが、金銭的余裕に反比例して心の栄養はなくなり、仕事と寝るだけを繰り返す「悲しい社会人」へ変貌してしまった。

何故私がそんな「好き」をなくしてしまい、「悲しい社会人」になってしまったのか。
そのプロセスを少しだけ吐き出してみようと思う。


①コミュニケーションツールとしてのコンテンツ

今から30年以上前、オタクと呼ばれる人々はとても肩身が狭かった。
それは、「アニメ・ゲーム」に対するバッシングが強く、それを好む人間は犯罪者予備軍とも言われていた為だ。
アラサーである私も、その事実はよく存じる所であり、実際親世代の人間からは自分の趣味をよく思われなかった。

故に私の中にも未だに「オタクであること」は「秘匿するべき趣味」という価値観が多少なりともあり、好んでいるが人に話していないコンテンツというものが多数存在する。
昨今は大分オタクに関して寛容になり、その人口も増えているところではあるが、やはり自分より若い世代との価値観が相入れない時がある。

ここ15年程でSNSが広がり、そのお陰で好きなものが同じもの同士のコミュニケーションも広がっているが、それも相まって自分の気質と「合うか合わないか」の幅も大きくなったように思う。

自分の価値観が大勢の人と違ってしまった。そう強く感じたのは「自分の好み」ばかり話す人と話していた時だ。
同じジャンルを好きになっていたその人の話を聞くのは苦でなかった。しかしある時から次第に聞くのが辛くなり、その人の話に合わせるようにするのが嫌になった。

そうして、「コンテンツって、人と話すツールなんだ」という事に改めて気付いた。

よく、ゲームの開発者の方が「コミュニケーションのきっかけに」開発したなんて話を聞く。
私にとって、どちらかと言えばアニメやゲームは己が感じるエンターテインメントであり、それ以外のものはあまり求めていなかった。

そうした認識のズレがSNSや対人関係の苦痛となっていた。
その時から、私は何かのコンテンツに対する自分の感情も感動も言うことがなくなっていった。


②アウトプットが減ればインプットも減る

そうして、SNSや友人との会話で感情や感動を言わなくなったことで、次第にコンテンツに対する気持ちも変わっていった。

何か思うところがあっても、楽しく感じたことがあっても、言わないのであればそれを整理することがなくなる。
そうするとどんどん感情が鈍麻していき、喜怒哀楽を感じることが減ってしまった。

入ってくるものはただの知識、情報だけとなる。
「楽しいからやる」ことは次第に減り、ゲームを付けることが、サブスクを開くことがどんどん手間に感じられるようになる。

そうして、「新たな物語を開く」ことがなくなっていった。


こうして、私が趣味として何かに打ち込み、楽しむことはほぼ無くなってしまった。
可処分所得に余裕がある分、ソシャゲのガチャでちょっと自他が引くぐらい課金することはあっても、感覚としては「買い物と投資の中間」でしかない。

コスプレイヤーとしての活動も、作品愛が原動力であった為、現在は限りなく休止状態である。
(こちらに関しては本当にやりたいものだけをやっている状態であり、フォロワーの皆様には本当に申し訳がないと思っている所です。)

「好き」を辞めてしまうと、こんなにも自分には何もないのかと心の中に一抹の悲しさを覚えるのだが、それすらも何処か他人事のように思えてしまう。

「好き」は人の心を豊かにし、交友関係を広げられるものだ。プラスにも、マイナスにも。
今回の件で私は酷く痛感したが、悲観はしていない。
突然何を「好き」になるかはわからないし、それが現れなくても、人は何とか生きてはいける。

いつかまた「好き」が生まれるかもしれない。
そういう楽観を心の余裕にして、暫くは「悲しい社会人」でいるつもりだ。