(番外編)父のことなど
現在デジタルデトックス中でnoteへの記事のアップを控えているけれど、今日4月29日は父の誕生日なので久しぶりに記事をアップします。
以下、私事ながら。
昭和4(1929)年生まれの父は、平成19(2007)年2月に亡くなったけれど、もし存命なら今年95歳という事になる。
先日、京都•大阪卒業旅行で母の住む高槻の実家に行って久しぶりに色々話をしながら、若い頃の父の仕事についての話になった。
父とは(特にその晩年)色々な話をしたけれど、もっぱら最近読んだ本や哲学の話なんかをしていて仕事の話はほとんどしたことがなかった(父もしようとはしなかった)事を思い出しながら…
昭和20(1945)年終戦の年、父は16歳。
予科練に入りたいと思っていたけれど、視力が良くなかったので諦めた事は時々聞いた事がある。
リベラリストだった父の祖父が「日本はこの戦争に負ける」と語っていた時に、非国民だと思いそのように祖父にも言った事を戦後恥ずかしく思いながら、幼少期の軍国教育がいかに人に影響を与えるかと恐ろしく思ったそう。
大学を卒業した1950年代始め頃はまだ日本は占領下で大変な就職難の時代だったようで、父は祖父の知り合いの鉄鋼関連企業に就職した。
その会社は1964年に倒産し、同じ鉄鋼関連企業に転職したけれど、その時僕はまだ5歳で父の苦労など知る由もない。
その後1978年にはその会社も吸収合併され、当時人事部長だった父は旧会社の社員の人員整理や再就職の仕事に追われ非常に苦労したそうだけど、家では全くそんな素振りは見せなかった。
(吸収合併される企業の記録を残すために社史も執筆していた事は先日母から聞いて初めて知り、僕が資生堂生活最後の12年間会社のヘリテージについての仕事をしてきたのも縁があったと知ったのは驚きだった…)
その頃社宅が荻窪から早稲田の喜久井町に移ったのも、直ぐ大阪に転勤になった事も、会社が変わったからだったと知ったのも恥ずかしながらつい最近の事だ。
父の生前にもっといろんな話を聞いて書き残したかったと思ったけれど、それはもはや叶わぬ事。
せめてもう少し母から色々な話を聞いて記録しておきたいと思ったのでした。
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