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実証主義的観点からみるモノの用途

あなたはこんな経験をしたことがないだろうか。『夏の暑い日、外出を終え家に着き、何か冷たい飲み物でも飲もうと思い、コップに作り置きの麦茶を注いだ。飲み干したい気持ちを抑え、まずは一口。しかし、思っていた何かと違う。そう、注いだのは麦茶ではなく、ポン酢だったのだ。』このような経験をしたのは私だけではないはずだ。他にも例は色々と挙げられる。駅で定期券を使う時、何度タッチしても反応がないばかりか、改札機に跳ね除けられる。だが、必死にタッチしていたのは学生証だったというパターンだ。学生証の裏にSuicaがあるのだから、それくらい読み取れるだろ文明の力、と思ってしまうところも正直隠せないと思っているのは私だけだろうか。

しかし、私は考えた。普通の人ならばポン酢を飲んだり、学生証を改札に叩き付けたりすることは異常であると見なす。このようなケースはあらかた目的論的に物事を考えているが故に形作られているのだと思う。つまり、ポン酢は飲み物ではない、学生証は改札にタッチするものでは無い、と言ったようにモノそれぞれの目的があり、それから逸脱するような行為・事象は受容し難いのである。

しかしながら、ポン酢を飲んだり、学生証を改札にタッチしたりすること自体を実証主義的な観点から考えてみると、モノの効果に重点が置かれることになる。つまり、非常に検証的な試みになるのである。本来の目的はこの際どうでもいい。ポン酢だって飲めば喉が潤う。学生証だって、タッチすれば改札に跳ね除けられる。小学生が学校からの帰り道に傘を振り回してチャンバラをしているのを見たことがあるか。あのチャンバラも傘本来の目的から逸脱しながらも剣として使えているではないか。彼らは実証主義的な立場を取り、結果として傘が剣の代わりになるということを検証していたのである。異論は認めない。

我々はあまり目的というものに執着が無さそうだが、内在的な意識の中には目的が重視され、そこから逸脱するモノやコトは異端などと呼ばれ忌み嫌われてきた。これは、歴史の中から学べるものであろう。また同じ過ちを犯すのか、それともポン酢を飲むのか、我々には究極の選択が迫られている。

※以前Twitterにて公開したクソ論文です。自分の中で傑作だと思っているので保存用に投稿します。

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