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その冬のいちばん寒い頃に

留年した上に単位が足りず追試を受け、ろくに就職活動もせずに大学を出て、新卒で入社したのが大阪のアパレルだった。
採用面接はふたりひと組だった。「円高ドル安とは何かを説明してください」という質問が面接官から出て、隣の背の高い志望者はバレーばかりしていたので分かりません、と答えたのでこれは楽勝だなと思っていたら入社式にはそいつもいた。

為替がなにか答えられないやつも学校にまともに行っていないやつもまとめて採るような会社だったが、勤め人生活はわるくはなかった。
山陰の自社工場を見学し、奈良の配送センターで研修期間を過ごした後本社のシャツ部隊に配属された。

入ったのは量販店向けの婦人服全般を作る年商数百億規模のメーカーで、東京、福岡と札幌に営業所、奈良と越谷に配送センター、海外にも拠点があるわりと大きな会社だった。
シャツとブラウスを企画生産する部署に配属後しばらくしてダイエーとしまむらの営業担当となった。営業がなにをすればいいのか、バレー部が為替を知らないくらいさっぱり分からなかったが、仕事を任されて給料を貰えるのは嬉しかった。週一で東京に出張し、本社では終電も厭わず仕事をした。

部署にはSさんという古参の先輩がいた。先代の社長の頃からの社員で今は役職なしだがかつては部長だったこともあったそうだ。いつもおだやかな人で、みんなからすーさんと呼ばれて慕われていた。
すーさんは残業のあとよく立ち飲みに連れて行ってくれた。飲むと陽気になり、僕の生まれ年を聞いてわしが入社した年やぁ、と笑うのが口ぐせだった。いつも奢ってくれたから、月に一度くらいはお返ししていた。
いつもニコニコとしていたすーさんに、外回りのついでにサボっていたのがバレて、一度だけめちゃくちゃ怒られたことがある。その姿を見た先輩が、鬼部長だった頃を思い出したわ、とあとで教えてくれた。

布帛の種類を覚えて得意先の担当者とも話ができるようになった数年が過ぎた頃、すーさんが残業中にたびたびおなかを押さえて顔をしかめるようになった。
Sさん大丈夫ですか?と言うと横山すまんけどビールを買って来てくれと言う。終電も近い夜、残っているのは僕らふたりだけだった。近くの自販機で缶ビールを買ってくるとすーさんはそれをごくりと飲み、飲むと痛いんがおさまるんやと言った。
病院に行った方が、、というと、そうやなとしかめた顔のまま笑った。

程なくしてすーさんは入院した。
病名は胃潰瘍ということで、手術後に部のみんなでお見舞いに行った。
すこし痩せたSさんはベッドに横たわっていて僕にマイルドセブンをひと箱くれた。
横山これやるわ。ひとつも美味くないんよ。それが彼の声を聞いた最後だった。

その年の末に僕は会社を辞め、家業を手伝うため地元に戻った。年が明けてその冬のいちばん寒い頃、訃報を聞いてすーさんの葬儀に参列した。
広い葬祭場の遠くに見える棺に奥様とまだ学生の兄妹がしがみついていた。部長も社長もデザイナーたちも、会社中のたくさんの人が集まって彼の死を悼んだ。
帰りにいつもの立ち飲みに入り、馴染みだった若い店員に、しんちゃん、おやっさん死んだわ。と伝えるとしんちゃんは目を見開いて嘘やんと叫んだ。

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