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25.  クリスマスのごちそう


 空高く、つがいのワイバーンが仲良さげに輪を描いて飛んでいる。

 小型とはいえドラゴンなら牙は鋭いだろうし、猛禽類のような鋭い爪が、ここからでも見えるくらいだ。僕は太陽を背に宙を舞うその生き物を、ミカン畑の入り口にある駐車場から見上げて、軽くため息をついた。わざわざ有給をとった、クリスマスイブの早朝。

「あんなの、どうやって捕るのかなあ」

「罠でしょ」

 ハイメはあっさりと答え、そんなことは当然だとばかりに、呆れた顔で僕を見た。


 クリスマスが来る。

 それは別にいい。生きていれば、季節は巡ってくるものだ。それに、毎日研究所に詰めてばかりいるとつい時間を忘れてしまうので、たまにこうして強制的に時期を自覚させられることも必要だ。

 問題は、それでどうしよう、ということなのだ。

 大学の研究所勤めなんて大した給料は貰えないし、研究職を選ぶくらいなので、クラブのパーティーに行くような趣味もない。仕事が立て込んでいるので、実家に帰るほどの時間も取れない。だったら寝て過ごすかというと、それもまた虚しい。一体僕は、生きるために仕事をしているのか、仕事をするために生きているのか。

 十二月の初め頃、住居をシェアしている連中にそう話してみたところ、その悩みは少しだけ緩和されることになった。解決策が得られたからではない。どいつもこいつも、同じような状況にあったからだ。

 この家に住んでいるのは研究員のハイメ、院生のニコ、そして僕だけだが、共通の同期で我らが紅一点のアルバも含め、仕事に追われる毎日なのに恒常的に金欠で、クリスマスどころか冬休みの予定すらない。ここまでないない尽くしだと、逆に笑えてすらくる。

「じゃあワイバーン、食べてみない?」

 ハイメがほとんど呟くように提案した。あまりの小声に空耳だったかもしれないと、他二人の方を向くと、同じような表情で互いの顔を見合わせている。

 予定がないと嘆いてはみても、生粋のインドア派である僕らは、そう言いながらたいていのイベントはスルーしてしまう。なのに、一番消極的なハイメから提案が飛び出したとあっては、誰もがまず、驚くより先に怖気づいた。

 幻想動物研究所に勤めるハイメによれば、ワイバーンのような幻想動物はもちろん保護の対象なのだが、ある種は特定外来種に指定されているという。それならば駆除という名目で捕獲しても問題ない。生きた個体でなければ、移動させても構わないのだ。

「うちの田舎では昔、クリスマスの煮込みと言えばワイバーンを使ったって、ばあちゃんが言ってて」

 外来種の味は多少違うかもしれないけれど、とハイメはうつむきがちにそう説明し、それが終わるのを待たずにアルバが、「やろう」と即決した。

 たっぷりとした黒髪に、豊かだが引き締まった体つきからは想像できないが、彼女はとても内向的だ。そのくせ好奇心は人一倍強くて、何でもやりたがる。それでいつも、行動の直前で怖気づいては意見を二転三転させ、僕らをいつも振り回すのだ。

 それなのに毎回懲りないニコが、アルバへ無責任に同意を示した。ソファに転がって話を聞いていたのを、頭だけ上げてこちらを向く。

「どうせなら、そういうものを集めてみようぜ。おれも心当たりあるし。アルバも知り合いに聞いてみればいい」

 アルバには文字通り、別の次元に住む知り合いが沢山いる。

「今年新入社員になったやつ、いただろ。北極圏から臭いニシンの缶詰くらい、送って貰えるんじゃね?」

「そんなくだらないことで連絡とったら、怒られるわよ。今一番忙しい時期なのに」

 アルバは苦笑したが、そのアイディアに対しては、まんざらでもないようだ。さっそくスマートフォンを取り出して、連絡先を探し始めている。

 食事と言われれば無視できない僕も、がぜん興味が湧いた。

 専攻に関係あることもそうだが、単純に食いしん坊な僕は、未知の食品というだけで魅力を感じる。やる気を見せ始めた三人を前に、発案者であるハイメがむしろ、及び腰になっていた。

「幻想動物料理大会だね」

 ともかくそんなわけで、クリスマスにやることは決まった。


 ひとつめの罠は不発だった。

 街から一時間ほど離れた山の中、畑の所有者に許可を貰って設置した捕獲器に、何もかかっていないのを見た時、僕は正直ほっとした。ワイバーンは食べてみたいが、その前に始末をつけることに対して、未だに心の準備ができていない。

 まだ薄暗い明け方のこと、内陸は手の先がかじかむような寒さだ。吐く息が凍る音が、聞こえるような気さえする。実際にはそこまで低温ではないはずだが、普段海辺の温かな都市部に住んでいる人間には、身も切れるほどに感じられた。

 そこは一山丸ごとミカンの畑になっている広大な土地だが、意外とハイウェイから近くてアクセスが楽だった。こんなところで幻想動物が住んでいるのか、信じられない気持ちになる。だがハイメによると、むしろ人の居住地に近く人気のない場所だからこそ、外来種が繁栄することができるらしい。

 「ここのオーナーと契約していて、時々研究個体を捕りに来るんだ」

 ハイメはてきぱきと罠を片付けて、そう言った。僕はふうん、と相槌を打って、周囲のテープを片付ける。

 間違って人が近づかないよう、派手に進入禁止と書かれたビニールテープが張り巡らされている。人間の目にはとても目立つのに、ワイバーンは色が識別できないので警戒されることはないのだという。

 罠はとてもシンプルな造りだ。空から地面が見えるところに餌を置き、その上部に輪になったワイヤーを設置する。餌の少し上に棒か設置されていて、それに触れると輪が締まるようになっている。

 ワイバーンは獲物を見つけると、高速で近寄るため頭から突っ込む習性がある。そして直前に頭を上げ、爪で切りつけるか、掴んで地面に叩きつけるのだそうだ。目立つ棒が置かれていると着地位置が誘導され、頭から首にワイヤーが引っかかる、という仕組みだ。

 単純である分失敗も多く、罠は一度に何個も設置するのが常だ。ワイバーンは威厳のある見た目とは異なり、余り記憶力がよくないので、時間が経つとまた同じ罠にひっかかる可能性が高いという。

 「なんだか、イメージが崩れるなあ」

 そう言うと、ハイメが目を細めて僕を見る。

  餌は好物のザクロの実と、金貨を模したチョコレートだ。甘い匂いに加えてカラスのように光るものを集める習性を刺激するので、これが一番効果的なのだという。

「幻想動物はしょせん、生物学に分類されるものだからね。高度な社会を築く知能があるものは、アルバの研究分野だよ」

 アルバはヒト以外の社会構造を研究する、第六社会学の助教授をしている。幻想動物学とは共通する分野も多く、一緒に仕事することもよくあるのだ。

「あいつは何を持ってくるんだろう」

 次の場所へと移動する間、そういえば、といった風にハイメは呟いた。

 なんせ広大な敷地のことだから、同じ畑の中を移動するといっても、車で移動しなければならない。舗装されていないでこぼこ道を進む。時々座席から飛び跳ねて窓に頭をぶつけたりしながら、僕は昨日の電話を思い出していた。

「予定もそうだけど、クリスマスの連中は、大体僕らと同じものを食べてるだろ。面白くないから、昨日会う予定があった別の知り合いに頼んだって。キノコと果物を持って帰るってさ」

 ヒトが食べても大丈夫か心配だったのでこっそり検索したところ、透明病の治療に使われるキノコだった。果物は食べてからのお楽しみだが、アルバはすでに食べた経験があると言っていたので(お菓子みたいにぱりぱりした触感で、中身はとろっとして、ものすごく甘いのだそうだ)、食べてもとりあえず死ぬことはないだろう。

「何次元に出かけたって?」

 幻想動物の中には次元をまたぐものも多いため、ハイメもそのへんの事情には詳しい。僕は実際には行ったことはないが、輸入食材の原産元表示なんかで、少しばかりの知識はある。

「32階層かな」

「じゃあ、あんまり近くはないな」

 たれ目が特徴的で線の細いハイメは、ナードスと揶揄される僕たちの中でも、輪にかけて非社交的だ。人間不信なところさえある。そのため誤解されがちだが、人並外れた行動力を見せることもある。一見矛盾に見えるのだが、自分で決めたことは何があっても曲げず、積極性を発揮できるのだ。慎重すぎて新しいことを始めるのに時間がかかることも含め、衝動的なアルバと正反対だと言えるかもしれない。

 ひときわ大きく車が揺れて、僕は思わず膝の上のカバンを抱えた。

「アルは料理する係なんだっけ」

 ハイメは前を見たままで、荒っぽい運転を続けている。僕はうん、と言葉にはせず答えた。口を開いたら、舌を噛んでしまいそうだ。

 僕の専攻とする哲学美術は簡単に言うと、この世の全ての事象に美を見出すことを目的とする学問であるので、当然食事や調理法もそこに含まれる。材料やレシピは少しばかり奇抜なものが多いが、味は折り紙付きだ。まあ料理係になったのは、単純にこの四人の中で、僕が一番上手だからということもあるのだけれど。

「あとは前菜。あんまり珍しいものは用意してないけどね、マンドラゴラとかスライムとか。でも下準備はできているし……あっ、でもワイバーンはどうしようかな」

 大丈夫、と言うと同時に、ハイメは急ブレーキをかけた。次の場所に着いたのだ。次の罠は目の前だが、やっぱり何もかかっていない。

「ワイバーンに熟成は必要ないから。むしろ鶏肉や魚みたいに、足は早い方だよ。それにこれは、僕が料理するから」

 ハイメはため息を一つつき、車内で待っているように手で指示して、機材を回収すべく車外へ出ていく。


 ニコが尊敬する仮想文学作家イサベラ・セラーノスの小説にも、そのコーヒーが登場するのだそうだ。

 彼の地元は少しだけ内陸側にあり、従って穏やかさで知られる地中海気候でも、気温は都市部よりもぐっと低くなる。当然、コーヒーなど栽培できるはずがない。だが、そこには特産のコーヒーがある。

 なぞなぞみたいだが、実際には単純な話で、そこにはドラゴンが生息しているのだ。

 ワイバーンよりも大きく体力のあるドラゴンは、毎年エチオピアで越冬して、春にまた戻ってくる。メスのドラゴンはコーヒーが好きで冬中実を食べて過ごすので、春先にうまく捕まえれば、腹の中からコーヒー豆を得ることができるのだ。

 ドラゴンの体内は高温なので、豆はすでに焙煎された状態となり、独特の風味がつくらしい。

「へえ」

 僕がした「げぇ」という反応とは異なり、特に嫌悪の表情もなく、というかあまり興味もなさそうに、ハイメは相槌を打った。

 山頂近くにあるため車が通れず、機材入りの大きなリュックを背負って、最後の罠に向かうところだ。これがだめだとメイン料理がなくなってしまうためだろうか、ハイメは少し神経質になっているように見えた。

「ニコはフィールドワークで先週から地元だろ。昼には戻ってくるけど、なんか小人のクルミ酒とかいうのと、そのコピ・ドラクが手に入ったって」

 写真付きのメールでは、それは普通のコーヒーに見えた。世の中にはネコからとれる、見た目が糞そのものの豆もあるくらいだから、誕生の背景を気にしてはいけないかもしれない。

 それにしても、小人のクルミ酒とは、小人が作った酒なのか、小人が漬け込まれている酒なのか。写真を送って来なかったところを見ると、後者なのだろうが。

 スマートフォンの画面を見ながら歩いていたら、飛び出ていた石につまずいて転げ落ちそうになった。相変わらずミカンが並ぶ畑だが、傾斜があって歩きにくい。日が昇り、だいぶ暖かくなってきたというのに、斜め後ろから見るハイメの横顔は、青白く頼りなかった。

「あとユニコーンのチーズ」

「何それ、それは初めて聞い」

 た、まで言葉を終わらせず、代わりにあっ、という言葉を漏らして、ハイメが足を止める。

 僕の身長くらいのミカンの木の枝に引っかかり、長い身体を半分ほど地面にもたれかけるようにして、大きな獣がそこに吊り下がっていた。暴れた様子もなく、騒いでもいない。

 僕たちに気が付くと首をもたげ、赤い目でじろりと睨みつけた。

「よかった」

 空気が漏れるような声でハイメが言い、しかしその顔に安堵はなく、どこか悲しそうに見えて、僕は一抹の心配を覚える。


 実を言うと、僕はあまりクリスマスが好きではない。

 それは子どもの時のトラウマが思い出されるからだと思う。正直言うと、それよりも憤慨する気持ちの方が強いかもしれない。

 僕は物心ついたときから自他共に認める真面目な性格で、万引きでもカンニングでも、悪いと思うことは一切したことがない。だというのに、サンタクロースが来たことがなかったのだ。

 もちろん僕が子どもの頃は、世間では二十五日のクリスマスは主流ではなくて、一月の頭にある三賢人のお祝いの方が大きく催されていた。それは僕の家も同じことで、毎年王さまからたくさんのプレゼントを貰ったものだ。二十五日にサンタクロースがくる家庭は外国の習慣が強いところだけで、プレゼントは貰えないのが一般的だった。

 それなのにおかしなことだが、毎年その日になると、僕の家を訪れるものがあった。

 だが、それは太ったひげのおじいさんではなくて、黒い毛皮に身を包み、大きくねじれた角を持つ、大きなトロールだったのだ。大きな麻袋を担ぎ、鋭い爪と牙を持つ、日曜学校で習った悪魔そっくりの。

 それが毎年やってきては「いい子にしていただろう、見ていたぞ」などと言って、僕の頭を撫でるのだ。時に、頭に袋を被った神父さまみたいなおじさんをつれてくることもあった。

 当然、僕は恐ろしくて、お礼を言うどころか、返事さえできない。

 クリスマスイブの夜中にチャイムが鳴ればそれがやってくるのがわかっていて、両親がドアを開けてしまうのも理解ができなかった。こんなに怖いものが家に入ってくるのに、にこにこ見ているだけで助けてくれなかった両親に、不信感を募らせたのを覚えている。

「……お父さんの仕事、ひょっとして外資系? ドイツに関係ない?」

 ハイメはナイフを持った手を止めてしばらく考えていたが、意を決した様子で、振り返って僕を見た。その様子に僕は面食らったが、隠すようなことではないので素直に答える。二つ目の苗字でわかるように僕の母はドイツ人で、父が仕事で出張中に出会ったと聞いている。詳しい内容は守秘義務が多くて、余り知らないが。

「でも、プレゼントは貰えるんだよね?」

「そう、プレゼントはくれるんだよ。それもキャンディとかじゃなくて、ちゃんとしたゲームとか本とか高価な、しかも欲しがっていたものをたくさん」

 ハイメは憐憫と同情と、色々な感情が沸き上がった結果、結局どれも表現できずに無表情で立ち尽くしている、ように見えた。後になって事情が分かればその内面の葛藤はよくわかるのだが、その時の僕はまず不気味を感じ、相手が吹き出しそうになるのをこらえているように思えたのが不思議だった。

「…大きなおせっかいだけど、それ多分、ちゃんとお父さんと話しておいた方がいいよ。もうすぐ妹さんに赤ちゃん生まれるって言ってたでしょ、その子のためにも」

 もう大人なんだから、とハイメはそんなような助言を僕にくれた。なにが言いたいのかよくわからなかったが、僕はあとで父に連絡すると約束した。ハイメはそれがいい、と強く頷く。

「お父さんにはきっと、悪気はなかったんだからね」

 僕にはハイメの、言わんとすることがわからない。


 間近でみると、ワイバーンは小型のドラゴンというよりは、両生類寄りの鳥だ。

 もちろん、しっぽや顔つきは爬虫類のそれだし、強気な朱色の体色も僕の「通常」から逸脱している。でも、足の鱗なんかはニワトリと同じだし、羽もコウモリと同じ構造で、生き物という認識が持ちやすかった。

「小型のドラゴンが赤いのは、夕暮れや朝に行動するから、空を飛ぶと保護色になるからだよ」

 ハイメはすいすいと慣れた手つきで、ワイバーンを解体していく。

 まず石で殴って気絶させた後、持ってきたシートを広げて吊るしたまま血抜きをした。それから中身を傷つけないように慎重に内臓を取り出し、いくつかはとりあえず塩水を作ったバケツに入れておく。後は皮を剥ぎ、部位別に切り分ければおしまいだ。

 どの工程にも、掌に隠れてしまうくらいの小さなペティナイフを用いたのには驚いた。よく考えれば、鳥のように空を飛ぶ生き物は骨がもろいから、細かい作業がしやすくて軽い分、解体作業が疲れにくい方が良いのだろう。

 僕は屠殺を見るのは初めてだったけれど、案外断末魔を上げて暴れたりせず、血が噴き出したりもしなくて安心した。それでも生物から食品に加工されていく過程は結構くるものがあって、作業へ手を出すことができず、洗われた器具を拭いて片付ける程度の手伝いしかできなかった。

「…悪いね」

「いや、僕は片付けは嫌いだから、すごく助かるよ。それに、一番大変なのは、肉を運ぶ作業だから」

 捕まったワイバーンは成体のメスで、軽く見積もっても四十キロ以上の重さがある。オスなら六十キロはあっただろうが、若くて出産経験がないメスの方が、肉が柔らかくおいしいはずだ、とハイメは言った。

「食べきれないから、まず研究所に寄って残りを冷凍庫に入れてから帰ろう」

 ハイメは器用に、煮込みのための足や首の肉を、骨付きのまま小さく(といっても、しっぽの輪切りがLPレコードくらいある)切り取って、クーラーボックスに入れた。ヒレ肉とレバーも少しだけ切り取り、残りはぞんざいにポリ袋に詰め込む。

「こっちはまとめてひき肉にして、ロールキャベツにするんだ。クローブを効かせてね」

 これもばあちゃんのレシピ。そこでハイメはふう、と一息つき、曲がっていた背中を伸ばした。

 僕は片付けた道具を全てリュックに仕舞い、念のために肉をもう一枚袋の中に入れる。血の付いたシートはごみ袋にそのまま入れたので、後はハイメが手を洗っている水を始末すればいいだけだ。畑に少しは血の匂いが残るかもしれない、とハイメはちょっと心配そうにしながら、水を畑の隅に撒き捨てた。

「そういえば、今年はハイメ、帰らないんだね」

 何気なく、本当に思いついたままに口にしただけの言葉だった。

 僕はハイメに背中を向けて片づけをしていて、仕事が終わった気分の良さに流されて、何にも考えてはいなかった。少し間が空いたので、軽い話題を選んだつもりだったのだ。返事がないので聞こえなかったのかと振り返ると、ハイメは洗い終わった手を拭こうともせず、少し下の斜面に立って、バケツを持ったままぼんやりと宙を見つめていた。

「ハイメ?」

「うん」

 今年は帰らないんだ。ハイメはちょっと小首を傾げて、小さく呟いた。

 冬の日差しは斜めに傾いて、夏のそれよりも目にまぶしい。鮮やかな橙のミカンさえも白く染める光を受けて、ハイメは大天使みたいな穏やかさで、少しだけ微笑んだ。

 そこでやっと思い当たった。

 そういえば、あれはまだ、この夏のことだったのだ。一般的にはそういう習慣はないけれど、一部の地方ではまだ、喪中に祝い事を避ける習慣があると聞く。うかつにも僕は、この時までハイメのいつもとは違う行動の意味を、考えてみることもしなかったのだ。

 大丈夫だよ、と彼は逆に、恥ずかしそうに自分の首を撫で上げた。

「気を使わせてごめん。別にそんなセンチメンタルな性格じゃないよ、知ってるだろ」

 でも僕は、ハイメが「そこまでセンチメンタルな性格」であることをよく知っている。他の二人は気が付いていたのだろうか。ニコはわかっていたかもしれない。若干ニヒリストを気取るニコが、食事に手間暇をかけることをバカにしなかったときに、気が付くべきだった。

 困った顔をしたハイメが、ただね、と僕の顔を斜めから見上げた。

「ばあちゃん、毎年煮込み作ってたんだよ。今年から作らないのは、変かなと思ってさ。ただ、それだけなんだよ。ワイバーンじゃあ、なかったけど」

 肩をすくめて早口で言い訳するハイメに、僕は無理やり笑顔を作った。

 山を下りて帰宅すべく、勢いよく大きなリュックを背負おうとして、あまりの重さにバランスを崩す。慌ててハイメが受け止めてくれなかったら、傾斜をおにぎりのように転がり落ちるところだった。

「煮込む時間がなくなっちゃうから、早く帰らないとね」

 わざと素っ気なく言う。もうアルバとニコは、家に帰りついているだろうか。せめて軽く掃除しておいてくれていたら、うれしいのだけれど。

 夜からのクリスマス晩餐会。

 多分僕たちは不慣れな食材に手間取って、時間通りに食事を始めることはできない。だからまず、アルバのキノコでオイル煮を作って、小人のクルミ酒でチーズをつまもう。そうしながら、順番に料理をすればいい。煮込みは朝までにできればいいさ。夜は長いし、話すことは山ほどある。

 ハイメが肩にかけたクーラーボックスのふたを、ポンと叩いた。

 その夜電話で、あのおじさんが誰だったのか、そして父の仕事の同僚であったことが発覚するのだが、それはまた別のお話。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。