21. サンタの帽子に
これは誰にも言ったことがないのだけれど……あ、いや、単に機会がなかったということもあるのだけれど。だから、あまり深く考察したりはしないでほしい。これからも僕は、あの橋の上を通るので。
改めて――誰にも言ったことはないのだけれど、“石の橋”を通るとき、いつもある女を見かける。
石の橋は旧市街から、今はもう干上がってしまった河川の、対岸へ渡るためにかけられたもので、古い時代に造られたために両端に階段状の段差があり、あまり使われていない。ベビーカーや車いす、車が通過するなら、ほんの十数メートル隣りにある“木の橋”を使う方が、都合がいいからだ。
石の橋は観光地である城壁跡からまっすぐ外へ向かっており、記念撮影には最適だ。そのため、シーズン中は観光客が多く訪れるが、写真なんて一瞬のことだから、人が溢れているということはほとんどない。
僕が石の橋をよく通るのは静かなこともあるが、隣の木の橋の手すりが低く、下が透ける構造になっていて、高所恐怖症にはツライことが大きい。その点、石でできているので下が見えることは絶対にないし、同じような高さの手すりでも、橋の幅が広いので安心感があるのだ。
そこに女がいると気が付いたのは、新学期が始まった頃だった。
秋になって海水浴目的の観光客がガクッと減り、橋の上が良く見通せるようになって発見した。中央辺り、なぜか左右に物見台のようなでっぱりができているところに、白い服の背の高い女がいるのだ。
女は色が異常に白く、古いデザインの服を着ている。髪が長いので、顔は見えない。それは首の角度のせいかもしれない。いつも少しうなだれて下の公園を眺めているので、通行人からちょうど見えないだけなのかも。
しかし、朝通っても、帰宅時の夕方に通っても、イレギュラーに飲み会から帰る時でさえ、いつもそこに女がいるのは理屈に合わない。おまけに、いつも同じ姿なのだ。夏が過ぎ、秋が深まっても、ずっと同じ薄いワンピース一枚に、足の甲が出るタイプの平たい編み靴。
地元でも似たような話はあったけれど、実際に見るのは初めてで、僕はそれに気が付いた時、どうするべきか迷った。
まず橋を通らない、という選択があった。
だが、木の橋も通らないようにするとなると、かなり大回りを強いられることになる。次に、女を無視する方法もあった。そして、これが正解であるように、僕には思えた。そもそも彼女が生身の人間ではない、という証拠はどこにもないのだし、ちょっと変わった人である可能性も十分に残っている。
それで、恐る恐る、橋を渡り続けることにした。
その時はまだ昼を過ぎたあたりで、橋の上なので当然日光を遮るものなどなく、とても明るかった。隣の橋では大勢が行き交っていることもあり、そこまで恐怖を感じる必要はないように思われた。そして実際、その通りだった。
僕がそれに気が付く前と同じように、僕はすんなりと女の前を通り過ぎることができた。その一瞬は傍目にもわかるくらい、落ち着かなくその出方を探っていたと思う。足の運びも、少しばかりぎこちなかったはずだ。
女はこちらへ、振り向こうとする仕草を見せた。しかし僕はその足元しか見ないようにしていたので、つま先がこちらに向く寸前に目線を自分の足先へと移し、足早に橋を渡り切った。そして、その後は何も起こらなかった。
次の時も同じように橋を渡ったが、今度は女の足はピクリとも動かなかった。
そして、何回かそんなことを繰り返すうちに、また女のことは気にならなくなってしまったのだ。それでなんとか心安らかに、毎日通学することができている。
今日は休暇前の授業納めだった。
クリスマス休暇後にある試験を考えれば憂鬱だが、それでも宿題があるわけでもなく、足取りも軽やかに家路につく。途中まで道を同じくする友人と予定を話し合い、少し遠回りをして市庁舎前のツリーをみるなどしていると、いやでも休暇気分が高まってくる。
小春日和で、温かいのもうれしかった。
人々はコートの前を開けて、首を伸ばして歩いている。僕はなんだか子どもの頃を思い出して、久しぶりにアイスなんかを買って、歩きながら食べた。
はしゃいで選んだはちみつのアイスは甘く、なんだかわからないスパイスの複雑なにおいがあり、時々ナッツの大きな欠片が入っていて、食べ応えがある。上には銀色の粒飾りまでのっている。寒いせいだろうか、こってりした味でもすいすい食べられる。
クリスマスキャンペーン中とかで、中サイズ以上の客にサービスされるちゃちなサンタ帽子をかぶる。完全に浮かれ男に見えることを自覚しつつも、それを結構楽しみもしながら、僕はのんびり冬の散歩を楽しんだ。
やがて、石の橋に出る。
楽しい休暇の前には、不気味な女のことなど気にはならない。
少し早い冬休みの観光客の団体もいるので、なおさらだ。立ち並ぶセルフィー棒の隙間を、誰にもアイスを付けないように慎重にすり抜ける。人込みを抜けたらちょうど橋の真ん中で、そこから先は人気がなかった。
女はいつも通り、そこにいる。
人々の喧騒を背中に受け、気が大きくなっていたのだろう。その顔を見極めようと、いつもより右側の物見台寄り、つまり女に近づく形で橋を渡る。しかし、数メートル手前で背後にいた子どもが”主は来ませり”を歌いだし、僕の足が止まった。
なんだか今日の女は、少し寂しそうに見えなくもない。
そうだよな、と僕は残り少ないアイスをスプーンですくって口に入れ、ふと可哀そうな気持ちになった。いつも同じ場所で、同じ風景を眺めているのでは、気が滅入ることもあるかもしれない。ことに、クリスマスのような賑やかな季節には。
なんでそうしたのか、自分でも説明はできない。すれ違う寸前にサンタ帽子を脱ぐと、そこにポケットに入っていた飴をいくつか放り込んで、黙って女の足元に置いた。それから、いつかの日と同じように自分のブーツを見つめながら、早足で橋を渡り切って、家に帰った。
その夜、夢を見た。
女が寝ている僕を、ベッドの側に立ってじっと見つめている夢だった。昼間にした余計な行動を、心の底から後悔した。女は怒っているのか、とにかく僕という存在に気が付いてしまった。
早くに目が覚めてしまった僕は、ランニングしている風を装って、石の橋まで行ってみることにした。何をするか考えるのは二の次、とりあえず様子を見に行かなくてはならない。
前日の暖かさに濃い霧が漂って、まだ街灯がついている薄暗い通りに、人の姿はなかった。ネコの一匹さえ、見かけない。すぐ目の前の影の中でさえ、誰かが潜んでいてもわからない暗さだ。僕は少し足を緩め、少なくとも日が出てから橋に到着するよう、時間を調節した。
オフィスが多い旧市街に近づくと、人通りも増えてくる。トラムの駅を過ぎる頃には、木の橋へ向かう道はいっぱいになっていた。社会人は大変だな、と同情したのもつかの間だった。ふらふらと道を塞いでいるランニング男への対応は厳しく、方々からの舌打ちや、通り過ぎる際にわざと小突いていくおばさんに石の橋へと追いやられてしまう。
はたして、女は相変わらずそこに佇んでいた。露に濡れた橋は朝日に照らされて白く輝き、人の足元を伸びる長くて濃い影と、強烈なコントラストを作り出している。
女はいつも通りの定位置に、しかし安っぽいサンタ帽を被って立っていた。
首の傾げ方がいつもよりも斜めだ。やっぱり顔が、どうしても見えない。どういう首の構造をしているのだ。フクロウか何かなのか。
それでもいつもの不気味さはなく、下を熱心に眺めている、ポーズをとっているだけに感じられた。
ちょっとだけ、照れているようにも見えた。
読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。