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a quiet talk-2020/6/4

「伝統的な家族観」ー資料を読んでいて、たまたま見かけた言葉なのだが、何だか妙な感じがした。この言葉の、いわゆる世間での使われ方についてはおぼろげながら知っているが、やはり、何とも変な言葉だと思う。
父親と母親からなる両親に子供二人(時には父親の親が含まれることもあるらしい)が「伝統的な家族観」なのだが、ここでいう「伝統的」とは何だろうか。
「伝統的な家族観」が、国の政策や制度を設計する際に用いられる基準という側面もあることは理解はするが、なぜ、「伝統的」という言葉を使うのか。
もっと分からないのは、その「家族観」の"親玉"であろう「伝統的価値観」という言葉である。この言葉、文章での使われ方から恐る恐る推測してみると、ある共同体の根底にあり、昔から脈々と受け継がれてきた、人々の中に共通して持っている理想的なものの在り様のようでもある。常識というものとは異なるようにも見えるのだが、「あるべき姿」の体現なのか。
究極的な、魂レベルの話をすれば、私と他者の価値観には差異はないと思うが、形而下では、他者と私の価値観は異なっている(勿論、共通するものもあるが)。

ところが、私は落とし穴にはまった。こんな自明なこと、と頭で理解していたのに、自ら「はず/べき論」に陥ってしまった。誰かに「伝統的価値観」という言葉を改めて持ち出されると、それには傍観的・懐疑的であっても、自身の足元すら見ることができなかったのだ、その当時の私は。
落とし穴の中で、息苦しい日々を送り、果てに不本意な事態に至った。
ただ、そのおかげで、穴から出るための内省の日々が得られたことには感謝している。

落とし穴にはまらないためには、まず自己の価値観を尊重することが大切なようだ(前回のブログと関連)。尊重とは、それを絶対視し鎧で守り固めるではなく、自分のありのままを認識すること(解釈はしない、見るだけ)。無条件に、洗いざらい、何をどう思っているのか、自分の眼前に出すこと。言葉でも、絵でも、記号でも、自分自身が認識できれば何でも良い、心に任せている限り(スケッチブックは最高の友)。
ふと、学生時代の講義で「ジャーナル(書き物)」を用いた異文化理解法を学んだことを思い出した。学術的な意義や手法などの詳細は忘れたが、一冊のノートを用いた、いわば二人で行う往復書簡だった。これは、一方がメンター的な役割を担うため、本来の目的が異なるのだが、「書き出す」ことは心を「掻き出す」ことであり、価値観を「描き出す」ことであるのは共通しているように思う。
I Dreamed A Dream




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