2017年04月 戯曲『島』 語り直しには「他者」が必要ということ

2017年04月
戯曲『島』
語り直しには「他者」が必要ということ

バージョンA 河口遥(アーティスト)
バージョンB 小宮麻吏奈(アーティスト)
バージョンC 田上碧(アーティスト)
バージョンD 根本 卓也(指揮・作曲・チェンバロ)
バージョンE 森 麻奈美(ドラマトゥルク)

トークゲスト:4月16日(日)松田正隆(劇作家、演出家、マレビトの会代表)

今月の戯曲は老婆が自分が5歳の頃から老人になるまでの「島」の歴史を語るモノローグだった。今までの上演と違い、ほとんどの出演者の方がモノローグをそのまま語り直しをするという手法を取っていた。もちろん語り手は老婆なんだが、そこには老婆以外の者たちの声があった。

田上さんの上演はモノローグに自作の労働歌が時折挿入されていた。戯曲の中で「地面の上に立って」「みんなで何かしているところ」を探したと言っていた。
そうして作られた歌を聴いている時、島にいた民たちの姿がそこにはあった。

森さんは田上さんとは対照的に「島」になったと言っていた。島の歴史を語る木箱と島の変化を模写するような砂たちを前に森さんはずっと聞いていて、何かをゆっくり確認しているようだった。それは神の視点か、人類の歴史が終わった後に突然生まれてきてしまった一人目の人間、かのような姿だった。

根本さんの上演は、どう見ても30代男性の根本さんが老婆になって、チェンバロで弾き語りするというものだった。私が撮影と編集をさせてもらったのだが、カメラ越しで見ている私にはその姿が滑稽に見えて、語り直しの不可能さを表象しているように見えた。そうアフタートークで伝えると根本さん自身は役に没入していたらしく、そんな意識は全くなかったと言っていた。カメラから演じられた「老婆」見るか、「老婆になっている」中から老婆を見るか、その違いがここにはあったように思う。

アフタートークで、松田さんが「隔たり」の話をしていた。役に入り込んでいる時に、その人が目の前にいるにもかかわらずどこかに行っちゃっているような感覚。今回の上演は有機的なものと非有機的なものがあったと松田さんはおっしゃっていたけど、非有機的な時はその隔たりが遠くにあると言っていた。隔たりが大きい、小さい、ではなくて、「遠く」にあること。それが小宮さんのノートパソコンを使用して、カーソルで戯曲に出てくる「蚊」になる上演にはあった。生身の身体が一切介入しないその上演は、一人の語りを語り直す方法として老婆の周りにざわめいていた「蚊」や「林」「空気」みたいなものになるという手法を取っていたように思う。

すべての上演がモノローグの語り直しの中、その日のブランクラスは老婆の話から抜け出せないループ時間が生まれていた。客入れ中と休憩中に流れる河口さんの音楽がそれをまた助長していたように思う。「話を聞いた人として話し方のリズムを汲み取って音楽を作りたかった」というようなことをおっしゃっていたが、その音楽は老婆のように淡々としていて、老婆の語りを反芻しているようだった。

老婆の語りにとことん付き合わなければいけない2時間は、お客さんにとっても今までで一番しんどい上演だったと思う。ただそれが語りというものが持つ重さとしんどさをそまま表出させていたように思う。

今回語り直しの方法として、音楽、歌、再生機器が使われていた。もの化したそれぞれは新しい質感を持ち、私たちは老婆の話をまるっとそのまま聞くわけではなくなっていて、むしろその語りの中を泳がせてくれていた。

写真:宮澤響(blanClass)

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