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【Vol.1】成田誠治郎 帝国海軍従軍記

この記事、連載は...
私の母方の祖父である故・成田誠治郎が、帝国海軍軍人として従軍していた際の記録を元に再編集したものである。なお、表現などはなるべく原文のまま表記しているが、読みやすくするため、一部を省略、追記、改変している部分があることを予め了承願いたい。

成田誠治郎 略歴

○昭和14年6月1日
横須賀海兵団に入団 55分隊10教班 16歳9ヶ月 四等機兵

○昭和14年11月10日
軍艦筑摩(一等巡洋艦)12分隊(電機)三等機兵

○昭和15年11月1日
二等機兵

○昭和16年2月16日
海軍工機学校 第72期普通科練習生

○昭和16年6月12日
舞鶴海兵団 補充分隊

○昭和16年9月30日
海軍潜水学校 特定員 教員助手 一等機兵

○昭和17年2月1日
潜水学校 43期普通科潜航術電機練習生

○昭和17年5月15日
第二連合艦隊特別陸戦隊となり、ミッドウェー島の特潜基地隊員としてブラジル丸(大阪商船)にて、グァム、サイパン島で敵前上陸訓練を行い進行。
上陸前日、米軍の攻撃により大敗戦を受けたがブラジル丸は無傷で横須賀に帰投。

○昭和17年6月28日
第3特陸戦隊に再編成されキスカ島攻略に参加。(アルゼンチナ丸 ※ブラジル丸と姉妹船)

○昭和18年5月1日
二等機関兵長

○昭和18年7月5日
キスカ島に無血上陸。
特殊潜航艇の基地隊員分隊長、乙坂正一中尉、西田士郎、松本、宇野計4名が少尉以上の艦長で、艦体(下士官)4名がいた。
その中には村上士山辺里出身の稲葉庄二一曹がいた。

○昭和18年7月29日
アッツ島玉砕後、キスカは孤立無援に。その後、奇跡の撤退作戦の成功により、千島列島の幌筵島に転進後、大湊を経由して舞鶴海兵団に帰る。

○昭和18年9月1日
呂44号潜水艦の艤装(岡山県玉野造船所)

○昭和18年9月13日
竣工後、瀬戸内海で訓練。

○昭和18年10月7日
舞鶴ドックに入港。

○昭和18年12月25日
第6艦隊 34潜水戦隊

○昭和18年12月28日
舞鶴出港。

○昭和19年1月6日
トラック島入港。
戦艦大和、武蔵が停泊していた。

○昭和19年1月25日
トラック島出港。サンタクルーズ島東方約300哩(フィジー諸島付近)で哨戒するも敵艦に会敵せず。敵艦対の行動通報。

○昭和19年2月28日
ミレー島に弾薬、物資の補給。帰路メジウロ島偵察中敵艦に発見され爆雷攻撃受けるも被害なかった。
12時間潜航中、空気清浄機を使用するも全員肩で息をしていた。

○昭和19年3月29日
トラック島停泊中米空母の大爆撃時、湾内で沈座中(深さ70m)至近弾により潜望鏡2本損傷。ロッド変形。
蓄電池の電槽10ヶにクラックが入るほどの損害を受け、浮上に90分も要した。この時付近にいたイ169潜は浸水して沈没した。

○昭和19年4月20日
呂44号潜の本格的な修理は呉となり、とりあえずトラック島の修理工場で仮修理(潜航しても潜望鏡が使用不可)を行い出港。

○昭和19年4月29日
呉に入港。修理作業に協力。 

○昭和19年5月1日
一等機関兵曹

○昭和19年5月14日
退艦して潜水学校高練に入校。
※後の記録で呂44は5/15に修理完了して出港、6月16日、エニウェトク島付近で米駆逐艦バーデン・R・ヘイスティング号のヘッジホッグ攻撃で沈没、誠に気の毒であった。

○昭和19年5月15日
潜水学校高等科潜航電機練習生入校。呂67潜水艦乗組 潜校の練習艦(教員助手)

○昭和20年5月7日
潜水艦の艤装員で神戸の川崎造船所に派遣。艦の竣工は8月30日予定であったが8月15日終戦。
士官は全員で六甲山の中腹に立て籠もる。

○昭和20年9月2日
帰郷

○昭和20年9月2日
舞鶴第一保安隊(再招集)
第二復員官補

○昭和20年11月30日
現役満期 新潟県職員

○昭和21年3月31日
招集解除

○昭和21年4月1日
厚生省舞鶴引揚援護局勤務

○昭和25年6月11日
新潟県三面川開発建設部電気課 副参事

○昭和40年4月1日
新潟県猿田発電所 発電課長
県職期間 29年10ヶ月

○昭和52年4月1日
新潟県三面発電所 発電課長

○昭和55年3月31日
新潟県職員勧奨退職

○昭和55年4月1日
企業局の斡旋で旭電工KKに勤務

○昭和55年5月11日
海友会に入会

○昭和57月6年11日
高橋塗装工業所に勤務

○平成15年
海友会支部長


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