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【Vol.17】成田誠治郎 帝国海軍従軍記

この記事、連載は...
私の母方の祖父である故・成田誠治郎が、帝国海軍軍人として従軍していた際の記録を元に再編集したものである。
なお、表現などはなるべく原文のまま表記しているが、読みやすくするため、一部を省略、追記、改変している部分があることを予め了承願いたい。

私のキスカにおける体験記より(キスカ基地)

◯昭和17年6月28日

私は軍用船になった大阪商船のアルゼンチナ丸に乗り、横須賀軍港を後にし、2日目になって我が部隊はキスカ島へ行くと聞かされた。
キスカは既に我が軍が占領しており第二陣である。

キスカの近くになってもそれほど寒くはない。後日聞いたところによると、この島は暖流の関係で四国の平均気温と同じとのこと。

しかし、そんな甘いものではないことをやがて知ることになった。

上陸してみると、砂地が多く山もあるが樹木は一本もなく、至るところツンドラ地帯であった。
私らの仕事は特潜基地の建設であり、海軍設営隊の隊員も200人位いた。

当初は皆天幕生活で連日建設機材の陸揚げ、正に人海戦術で時には半袖シャツで作業したが、さすがに7月というのに夜は寒い。

ある日、作業中に設営隊の中に偶然にも村上出身の川上平作(安良町)に出会い、懐かしさでいっぱいであった。
雨降りの日などは時々嗜好品(菓子等)を持って行くと、大喜びでお礼にと釣道具をいただいた。
小川で釣れるのはヤマメで10cm前後のものがよく釣れた。

私の日常の仕事は特潜(別名甲標的、咬竜)の動力源たるバッテリーの保安管理であった。
特潜は胴体の操縦室の前後に多数のバッテリーを2段積みにして装備する。
この大事なバッテリーの電液の比重、温度を測定し、比重が下がれば潜水艦の為に設置された充電発電機(DC220V、約200kw)を蒸気ピストンエンヂンで駆動、発電して充電する。

別の仕事では、兵舎と防空壕の電灯用としての発電装置5kw(米軍より鹵獲したもの)でエンヂンはガソリンを使用する。

他に国産の発電装置もあったが、残念ながら敵さんの方が高性能であった。
国産は負荷効率が悪く時々止まる。
点灯時間は一日5時間くらいで、就寝時は石油ランプである。

基地の土質は大部分が砂岩で、防空壕掘りは割合楽だった。
1日に2m位は掘ったが、その上に爆弾でも落ちると、250kgの爆弾位になると、坑内までつぶれてしまう。

壕から出る土砂はモッコで外へ出すが、今の一輪車でもあったら能率的であったか…?
穴掘り作業中は敵、味方の戦況情報屋がいて、それに味付けをしてさらにふくらませて、それに誠しやかに吹聴する。
その度に私は落胆したりの毎日であった。

空襲下の特潜基地

特潜隊より五警本部に至る道路は5kmくらいあった。
その間に作戦連絡用電話線2回線があった。

電話線は電柱なしの地上に這わせる方式のため、空襲の都度高角砲や敵の爆弾の破片で切断されるため、解除後又は空襲中に、1日に10数回も修理を行う。
誠に危険であるが、それが戦争である。

被害が重なると2回線を1回線にまとめて通話することもあった。
被害の多い箇所は鱒池付近であった。
鱒池の奥地道路付近には航空ガソリンとエンヂンオイルがドラム缶で20位あったが、機銃弾にやられ無残にも地面に流出していた時もあった。

全くもったいないことだ。
キスカでは全てが皆貴重品なのである。

上陸当初の我が高射砲射撃は壮烈なものであったが、アッツ島玉砕後あたりからはキスカの上陸に備えてか、備蓄量の減少により反撃する砲声も寂しくなった。


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