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【Vol.16】成田誠治郎 帝国海軍従軍記

この記事、連載は...
私の母方の祖父である故・成田誠治郎が、帝国海軍軍人として従軍していた際の記録を元に再編集したものである。
なお、表現などはなるべく原文のまま表記しているが、読みやすくするため、一部を省略、追記、改変している部分があることを予め了承願いたい。

〇昭和19年11月24日

昭和20年はじめ頃、硫黄島の守備司令官栗林中将は、米軍の上陸間近な時、守備隊全員に令あるまでは米軍が上陸してきても地下壕よりは出るなと定めておいたので、米軍もこれには大変手こずっていた。

或る夜、一斉攻撃を命じたので米軍の被害は甚大になった。
日本軍の地下壕はもぐらの穴の如くになっており、出入口の2、3ヶ所くらいやられても別の出口から出入りできた。
しかし、壕の中は地熱が高く苦労したという。

竜巻作戦のために19年4月、各方面に分散されていた数少ない潜水艦6隻(イ36、イ38、イ41、イ44、イ45、イ46)が呉に呼び戻され、連合艦隊の潜水艦参謀 渋谷龍穉大佐から総攻撃の作戦説明があった。
会議の席上で各艦長からすごい反対論が出た。
レーダーを自由に駆使していた敵が日本の潜水艦をいいカモにしていた時である。

イ41の板倉館長が反対論を述べると、軍司令部や軍務局の作戦指導部が激怒したばかりでなく、特回内大艇の搭乗訓練をしていた若い士官をも怒らせ、「祖国の危急存亡の危機」のときに潜水艦長が尻込みするとは何事か、と言った。

戦死することだけでは勝利にはならない。犬死に等しい。

高等科練習生卒業

〇昭和19年11月30日

高潜卒業。
左腕につけた高潜卒業マークは一重桜から八重桜に代わり、胸には潜校卒業紀章を付けた。
大変立派になった。

七尾分校へ派遣

〇昭和19年12月1日

呂67潜乗組員兼大竹第二警備隊、七尾分校派遣。練習潜水艦の教員助手。
七尾市の穴水にある小学校を分校した。

呂64潜 触雷により沈没

〇昭和20年4月12日

呂67潜乗組中、呂64潜と共同で士官の訓練中、呂64潜が宮島と大竹の間にある可部島付近で米機が投下した機雷の爆発により沈没した。

大竹市の小方に下宿。
下宿には男1人、女3人、長女は花子といい、下宿人の中村正(金沢の人)と結婚した。

弟の七良が昭和25年9月28日~昭和26年9月16日まで東洋紡岩国工場に勤務していた時、小方の下宿へ訪ねていき色々世話になった。
後で下宿の三女美枝子より聞いた話では、七良と結婚してもよいという考えをもっていた。

〇昭和20年5月1日

昇任 海軍上等兵曹

〇昭和20年5月7日

波221潜水艦の艤装員を命じられ、6月中旬、川崎造船所に転任。
艦長服部正範中尉、機関長井上正夫少尉、先任下士官は機関科成田、兵科は青森の佐岸、居住は東出国民学校(RC)、一階の教室2ヶ所使用。

造船所までは1.5kmくらいあり、徒歩で通った。
波221潜はドック内にあり仕上げ調整の段階であった。

5月7日発令から6月中旬までは波221と同型艦3隻が大竹にあり、5艦分の乗員が交互に練習に努めた。

当時本艦を迅龍特攻隊と呼んでいた。
戦斗になったら魚雷6本発射したら体当たり、それには艦の最前部に名前の書いていない格納庫があるところに爆薬を装填してある。


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