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【Vol.6】成田誠治郎 帝国海軍従軍記

この記事、連載は...
私の母方の祖父である故・成田誠治郎が、帝国海軍軍人として従軍していた際の記録を元に再編集したものである。なお、表現などはなるべく原文のまま表記しているが、読みやすくするため、一部を省略、追記、改変している部分があることを予め了承願いたい。

果たして我々は中国人になれるか

◯昭和15年6月

ある夜、3人で上甲板で涼んでいた時の話。

毎日理に合わない仕打を受けるのはたくさん、こんな事をされていると、そのうちに片輪になる。
もう海軍はいやになった、内地で逃亡すればおそらくすぐに“つかまる”だろう。
それでは支那ではどうだ、大丈夫さ…。

逃げるには陸まで泳ぐより方法がない、艦よりは大体5~6kmはある。

では、3人共泳げるのか。
私は泳げるが、あとの二人はバケツの様だ。
金槌はすぐ沈むが、バケツはしばらくは浮いている。
が、波にゆられて次第に水が入り結局沈んでしまう。
波が静かなうちは風、潮まかせでいつかは岸に着くが、荒れればバケツに水が入り、バケツと心中…だから、馬のケツだ。

こんな話になって結局逃亡計画は中止になった。

私が空を見ると、日本の上空と思われる方向にお月様が見える。
その月を見て故郷のことを思い、気を取り戻した。

翌日10分隊の友人から聞いたのであるが、罰直で殴られるときに尻の穴をすぼめると痛みが弱く感ずるとのこと。
早速友人と練習してみると、慣れないせいか、腹の皮だけ縮んでガスが出た。

"まてよ”、これが本番になって、上官に“へ”をかけたとなると、バットでの制裁本数が少し増えることになる。
まったくうまく行かない。

また、殴られたときに体を”くなくな”させると、上官がまだ気合が入っていないと、また追加がある。

私は考えて、制裁も慣れてくると痛みが和らいでくるが、それをいかにも痛いようなうめき声を出す。
目を細めてその場から遠ざかるとき、"有難うございました”と最敬礼して終わりとなる。

馬鹿げた話だよ。

制裁を受ければその仕返しをする。見ておれよ

仕返しの方法は多種あるようだが、ちょっと書いてみよう。

烹炊所より「バンカン」、つまり配食箱を受け取り、人の見ていない所で飯入れの蓋を取り、思い切って頭髪のフケを飯に振りかけておくのだ。
配食時には上の部分を少しかきよせて、良い部分は班長級の上官に行くようにして、中程の悪者に食べてもらう分にはフケ飯を配食されるようにして、一番下の方はフケなしで、我々が食べる。

特に悪い上級兵には、お茶を並べるときに鼻くそをつけた親指をコップの中にいれ、味付けをして置く。そして悪者が飲む。

誠に痛快である。"ザマアミロ”だ。

いつも飲んでもらうお客様は、世にも知れた悪玉、早川 鎮(実は新潟県人で新発田の出身)である”チン”は、一見ブルドッグの頭にトロロを掛けた様な顔である。
機嫌のよいときは猿で、不機嫌になるとそれがブルドックになるのだ。

その後、機械分隊(11分隊)で制裁を受けた後、具合が悪くなり医務室に運ばれ診察された後、死亡した者が出たため大さわぎになった。

それがために、後日艦長通達が出て今後制裁は絶対に禁止となった。だがその後も軽いものは時々やられた。
一時は止めた時もあったが、それに代わるもので、我々にとっては形を替えた制裁が始まった。

それはデッキ拭き(床拭)を、普通は10分位であるが、これを倍の20分位にする。
私の経験では10分でも汗が出るのに、20分もすると手足が動かなくなる。
すると上官が樫棒で小突く。この様なことを3ヶ月もやらされた。
それでも何とか耐えて、今に見ていろと…。

このような制裁がひどいと、陸戦隊で支那軍と交戦中に味方の兵隊に銃で撃たれ負傷か死亡するということになったとも聞いている。

“味方も時には敵兵になる”とはこの事、敵、味方相互で撃ち合いをするときのことであるから、銃口は支那軍に向けているのが、時には仕返しとして味方の悪兵に向けることもある。

それで陸戦隊では余りひどい制裁はなくなったと言う。
"ごもっとも”。


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成田誠治郎 帝国海軍従軍記

この記事、連載は... 私の母方の祖父である故・成田誠治郎が、帝国海軍軍人として従軍していた際の記録を元に再編集したものである。 なお、表現などはなるべく原文のまま表記しているが、読みやすくするため、一部を省略、追記、改変している部分があることを予め了承願いたい。
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