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【Vol.14】成田誠治郎 帝国海軍従軍記

この記事、連載は...
私の母方の祖父である故・成田誠治郎が、帝国海軍軍人として従軍していた際の記録を元に再編集したものである。
なお、表現などはなるべく原文のまま表記しているが、読みやすくするため、一部を省略、追記、改変している部分があることを予め了承願いたい。

〇昭和18年8月28日

舞鶴海兵団着、補充分隊員となる。
隊内には同年兵や筑摩で一緒だった者にも会って、キスカの敗残兵等とも言われたが、皆がよく助かったなぁ、と言ってくれた。

この分隊中で缶の名前を見ると、笛吹三面里と書いたものを見て、何と読むのか他の者に聞くが判らない。
後になってようやくウスイミオサトと判った。

〇昭和18年9月1日

呂44号潜水艦の艤装員として岡山県玉野造船所に転勤、玉野造船所で潜水艦を建造するのは最初で第一号艦であった。

食事は造船所の工員と同じ豆の入った飯で、魚は土地柄色々食べた。
女子工員等はうらめしそうに見ていた。

呂44号潜水艦でいよいよ敵陣で実戦配備に付く

◯昭和18年9月13日

呂44号潜水艦が竣工し、11月30日まで瀬戸内海で猛訓練を行う。
その間琴平神宮、別府温泉、長浜、柳井、新居浜、下松に寄港して10月上旬舞鶴入港、ドック入り、帰省休暇。

第6艦隊 第34潜水隊に編入、舞鶴港にて実戦配備。
艦長は橋本以行少佐。

〇昭和18年11月7日

平成5年8月15日の戦記「あゝ伊号潜水艦(続)」(著者板倉光男)によれば、キスカ島の特線基地隊長国弘信治中尉は、昭和18年11月7日、甲標的によるゲリラ作戦でガダルカナル島の奪還を企図して、米軍のガ島への物資の揚陸を防衛する目的で、イ20潜から甲標的を発進させ、敵の魚雷艇がむらがる泊地に侵入し、輸送船マバラ号を撃沈させて、無事イ20潜に帰還している。
国弘中尉と私はキスカ島の特潜基地隊で同隊で隊長であった。
※甲標的とは搭乗員等が特潜を言うときの専門用語

トラック島でのカナカ族

〇昭和18年12月25日

呂44号潜水艦で作業が終わり、無事トラック基地に戻って休養と次の戦斗準備を行った。
翌日上陸して基地隊に行き、付近の防空壕や高射砲陣地を見に行った。

少し遠い所に町の様な所があったので、散歩しながらカナカ族の部落入口に入ったら、肌が紫色の年頃の女がニコニコして私達の方を見ている。
言葉は出さないが、一応手を上げて挨拶すると相手も手を振ってくれたが、何か気持ちの悪い感じを受けたので、引き返して浜辺づたいに歩いていると、太陽は大分西に傾いて入道雲の中に入るところだ。

その途中で、土人の親子と思われる女2人と会った。
この女も肌はチョコレート色で、歯は白く目は丸くて腰ミノをつけ買い物にでも行って来たのか、籠を頭に乗せていた。

〇昭和19年1月6日

トラック島入港。

初めての遠い航海で極度に疲労したが、入港すると戦艦大和、武蔵が艦の周囲に防雷網を巡らせていた。
艦の大きさは想像以上で、まるで島の様であった。

〇昭和19年1月10日

この時の情報では、米軍のレーダーが性能向上したために、我が44号と同型の呂33、37、38、100、101、102、103、107、110が沈められている。

米軍のレーダーは高性能で、我が艦艇が大量に犠牲になっている。

〇昭和19年1月25日

トラック島出港。

サンタクルーズ島東方300哩で哨戒するも会敵せず。
橋本艦長はチャンスがなければ攻撃せず、もっぱら敵艦隊の行動を通報する。

〇昭和19年2月21日

作戦行動後、トラックに入港。

休養と米軍の制空海域の日本軍の島へ軍事物資を輸送する準備をした。

〇昭和19年3月29日

トラック島の沖に停泊。

久し振りに上陸。潜基隊で一泊、艦においては夕方よりビール、ウイスキー等を飲んで大声で流行歌や民謡を歌ったら、付近に停泊していた艦の乗員がびっくりしていた。

艦の周りの海中にはサメがウヨウヨしている。同僚が酔って甲板より落ちそうになるので困った。

自分の身は自分で面倒できない者はサメのエサだよ、と友人に言うと、今度出港したら仏様になるかもしれないと言われたが、私はそんなにやすやすと死んではいられない、他人は死んでも私は生き残ると自分に言い聞かせた。

以前に大和、武蔵が停泊していた位置には、転覆して船腹を出した第二図南丸が見えた。

トラック島大空襲

〇昭和19年4月4日

呂44潜では半舷上陸で、私も夏島の基地で休んでいた。

10時頃空襲警報が発令され、私は山側の防空壕へ急いだ。
1時間後に敵戦斗機が機銃掃射してきた。

島からは高角砲で応戦、次に大型機による爆雷になった。我が呂44はいち早く錨を出したままでその場に沈座していた。空襲は90分くらいで静かになった。

その後、1時間くらいした頃から沈座していた潜水艦が順次浮上してきたが呂44はなかなか姿が見えないが、間もなく姿を現した。

他の艦船にも被害が発生、水上艦艇で傾いているものもあり、桟橋は困難を極めた。

私もようやく呂44に着いて艦内にいた人に聞いたら、損害は後舵のアーム曲がり、潜望鏡(昼間用と夜間用)の2本使用不能、蓄電池の上蓋にヒビが入る、照明器具の破損等があった。

はじめトラック島の工場で修理を考えてみたが、完全修理は見込めなく、結局呉に帰り修理と決定。

私は最初、近日中に潜水学校に入校するため飛行機で行くことになっていたが、艦長から私といっしょにこの艦を呉まで回航するのに、ぜひ成田君の協力を得たいとのことで、呂44潜で帰ることになった。

この空襲でイ169潜は爆弾の直撃を受け、ついに全員帰らぬ人となった。



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