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【Vol.9】成田誠治郎 帝国海軍従軍記

この記事、連載は...
私の母方の祖父である故・成田誠治郎が、帝国海軍軍人として従軍していた際の記録を元に再編集したものである。なお、表現などはなるべく原文のまま表記しているが、読みやすくするため、一部を省略、追記、改変している部分があることを予め了承願いたい。

戦艦筑摩の猛訓練と理不尽な制裁

〇昭和15年6月

筑摩は実戦さながらの猛訓練をやった。

その上に、夜の8時前後に各分隊で少人数に分かれ、我々より6ヶ月か1年上の兵隊が、新兵を気合が抜けていると言って、ロープ、ブラチパイプ、樫木の棒で尻を思い切り叩く。尻の色が変わる。
これが軽重の差こそあれ毎日である。

つまらん所にケチをつけてそれを理由に尻を叩く。叩かれないと寝れない。

こんなことがエキサイトして、兵科分隊には遂に重傷者が出て大問題となり、副長通達が出て、今後は如何なる理由があろうとも体罰を禁止することになった。

その見返りとして、デッキ掃除は長くて10分位のものが20分位になり、疲労度はこの方が大きい。
腰が立たなくなって、食事の準備も出来ないことがある。

私のパートには、早川鎮、山崎ガク長等、4、5人ものくせ者がいた。
もし終戦時に同じ所にいたら当然お返しをした。

陸戦隊の敵との白兵戦になると、上官は前にいるから、いじめられている者が、馬に乗った上官の後から銃で撃つ。
そんな時はどこから飛んで来た銃弾か分からない。それをいい事にして仕返しされた人も相当いたと聞いた。

筑摩の制裁があまりにもひどかった時、終わって上甲板に友人3人が集まりこそこそ話で、こんな事をされていたら片輪にされる、これは厦門(中国領)の沖を3人で逃亡するかと計画を立てたが、泳ぎでは私はよいが、後の2人は余り自信がない、それでは中国領に着くまでに金槌だ。

距離5~6kmはあった。
結局成功率は20%位で断念した。

筑摩の上甲板には人影も少なく、上を見ると十五夜お月様が私達を見下ろしているようだ。
新潟県ではきっとこの月を見ている。
そして私達の武運長久を祈っていることだろう。

それでは私もまだまだ頑張って、父母の為、お国の為に尽くしていかなければいけないと自分に言い聞かせ、自分のパートへ帰り、上司のシャツや靴下等を洗濯して、12時頃ベッドに入った。

私は海軍在籍中に制裁は受けたが、その後は潜水艦の勤務であったので、私が制裁を加えたことはない。

巡洋艦筑摩で中国の海南島の三亜港外に停泊

〇昭和15年9月21日

我が軍が佛印進駐作戦を行うために、我が機動艦隊の先発の利根、筑摩が、中国領・海南島の三亜港に入港、休養した。
入港といっても立派な港ではなく港の附近で仮泊である。

乗組員は外泊なしの半舷上陸で、ヤシ林の奥にあった砂糖工場へ見学に行った。
規模は小さく支那人が大勢居り、労働者も物珍しそうに我々をニコニコ迎えてくれた。

機械設備が粗末で能率が悪く、ロスが多いように見えた。
しぼった糖蜜を大きな釜で煮詰める方法で、附近にいると甘い香りがして、帰る時あめ玉を貰って帰った。

ネズミ小僧

〇昭和15年10月

筑摩は母港に帰りドック入をして乗組員も久し振りの半舷休暇で皆郷里へ帰った。
私は第二次で取り敢えず留守番となる。

あまりに暇なので、私と菊入と2人の相談で、艦内も手薄だし、何かうまい物探しをしようかということになった。

このデッキの下には缶詰倉庫があるらしい。
よく主計兵が出入りして缶詰と思われる木箱を持ち出す。
そーっと覗いてみようと2人で下の部屋(スクリュー軸の室)でちょっとやかましい倉庫があったが、ドアには真鍮の南京錠が掛けてある。

何とか合鍵を造ろうと寸法をみて、電気倉庫で2個造って使用してみると、幸いに2個とも南京錠が開く。

庫内には木箱に入った缶詰が相当数ある。
品名がよくわからないが、適当に蓋の開いている中から3個取出し、用意して行った袋に入れてまた錠をかけ、その場から上の居住区に帰ってから電気倉庫へ行き、缶詰を開けてみると、タケノコと鶏肉の水煮であった。

2人で鶏肉の方をだいぶ食べて残りは各自で1個ずつ持ち帰った。
それからもう一回やってからは、”ヤバい”のでやめた。

缶詰には赤飯、鮭、牛肉もあるらしいがものにはできなかった。


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