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【Vol.15】成田誠治郎 帝国海軍従軍記

この記事、連載は...
私の母方の祖父である故・成田誠治郎が、帝国海軍軍人として従軍していた際の記録を元に再編集したものである。
なお、表現などはなるべく原文のまま表記しているが、読みやすくするため、一部を省略、追記、改変している部分があることを予め了承願いたい。

呂44 トラック島より呉へ

〇昭和19年4月20日

トラック島を出港、全くのメクラ航海。

サイパン島付近で米軍の大型偵察機を味方機と誤認したために急速潜航した。

爆弾は至近弾で助かったが、メインタンクに穴が空き完全浮上ができないので、敵機が去った後、穴に木栓を打ち込み応急手当をした。

〇昭和19年4月29日

呉に入港。

艦の修理のため、ドック入りし急ぎ修理作業が始められた。
私も手伝って退艦、10日前に人員の入れ替えがあった。

退艦者は、橋本艦長、兵科1名、電機では肺結核の宮野良水と私、機械で1名、計5名が退艦してそれに相当するもの5名が乗艦してきた。

呂44退艦

〇昭和19年5月14日

潜水学校高等科潜航術電機練習入校のため退艦。
大竹の同上学校に入校。

呂44沈没

呂44潜は修理完了して5月15日呉を出港し、南太平洋で作戦中、6月16日、エニウエトック島付近で米駆逐艦バードウィン・R・ヘイスティング号のヘッジホッグ(爆雷をバラまく)の攻撃を受け沈没。
誠に気の毒なことであった。

その後、昭和53年に仏壇を新調したので、呂44潜水艦乗組員をひとまとめにして位牌を作り、毎日拝礼している。

高等科練習生

〇昭和19年5月15日

大竹市にある潜水学校第一期高等科潜航術練習生入校。

教務内容は交流理論をはじめ幾何学等、高度な専門知識を学んだ。
昼の授業は眠くなって困り、ヒロポンを時々使った。

盲腸の手術の夜に氷を食べる

〇昭和19年7月14日

盲腸炎にかかり、学校の医務室で手術。

気温29度で、手術室をさらに2~3度上昇させ、菌の混入を防いでやったため、体内の水分が全部というくらい流れ出た。

夜10時頃、手術箇所を手で押さえて、洗面所の氷冷蔵庫へ氷に盗みに行って、死んでもいいくらいの意気込みで飲み込んだ。
ところが、脇にいた者はそれもしないでうなっていた。

2〜3日後、私は平気で歩行可能となったが、脇の人は化膿した(昔姉より早く水を飲むと化膿すると聞いている)。

〇昭和19年8月13日

山口県柳井に上陸し、東の方向に小高い丘があり、そこに長浜セツ方に67潜の乗員8名宿泊。

セツさんは間もなく朝鮮に帰ると言っていたが、大変サービスがよく皆喜んでいた。

〇昭和19年10月15日

宮ノ下の友人高橋栄蔵から借りた「特攻の戦記」より。

昭和20年1月頃の比島クラーク基地では400人余りの日本パイロットがいたが、戦況はだんだん絶望的になり、特攻を出そうにも飛行機がない。

仕方なく山ごもりして戦う方針になっていた時、今さら飛行機乗りが陸戦で死んでもつまらんと、最後の特攻隊員を選ぶ時にジャンケンで決めたとのこと。

兄喜代司の戦死した場所

兄喜代司は満州のハルピンから比島の北方エチアゲの飛行場で整備員をしていたときマラリアにかかり、栄養失調となり遂に戦死した模様である。

そのエチアゲ飛行場は陸軍のもので、小規模のため海軍の一式陸攻機は使用できないので、その東にあったツゲガラオ飛行場を使った。

この付近は山岳地帯が多くゲリラとの戦もあった。

この戦況は海軍側のもので、兄のいた陸軍部隊のことはあまり書いていないが、陸軍側では食糧が不足であったと考えられる。

この付近にいた海軍の航空部隊の生き残りはひそかにツゲガラオからパイロット、整備員たち125名程が台湾に飛行機で逃げたという。

陸軍特攻最後の集団的な攻撃は、昭和20年1月12日、ルソン島リンガエン湾の敵艦に対し、第30戦航空基地奪回の5隊33人の出撃をもって組織的な抵抗を終えた。

5隊は下記のとおり。

①富嶽隊3人
②精華隊22人
③皇華隊2人
④小泉隊1人
⑤旭光隊5人

海軍部隊の特攻はツゲガラオ基地から突っ込んだようだ。

※99式襲撃機は時速430kmの複座機で一式陸攻の560kmとは比較にならない。

最初に予定されていた新司偵(司令部偵察機)は650kmで、当時の陸海軍機の中では最も速かった。


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