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【Vol.18】成田誠治郎 帝国海軍従軍記

この記事、連載は...
私の母方の祖父である故・成田誠治郎が、帝国海軍軍人として従軍していた際の記録を元に再編集したものである。
なお、表現などはなるべく原文のまま表記しているが、読みやすくするため、一部を省略、追記、改変している部分があることを予め了承願いたい。

あっ、3本煙突だ(遂にキスカ撤退) 

キスカより日本に近いアッツ島が玉砕し、その次はキスカだと皆が認識していた。

我が隊の特潜も3隻は海岸の砂浜に打ち上げられた状態で使用不能、残りの3隻は格納庫に入っているが、海に引き出す施設が波浪による損傷で使用不能、その他弾薬、糧秣なども不足を告げていた。

米軍の上陸を覚悟していた我が隊に、キスカ島より撤退の話があると上官の口から知らされたが、撤退できると思う者は誰もいなかった。
しばらく経つうちに話は段々と本格的になっていった。本当に出来るのかな…。

その後、七夕地区の陸軍部隊から撤退後の乗船地点の浜を下見に来た。
その浜は特潜基地から鱒池付近である。

我が隊でもようやく撤退に処する具体的な計画を始めたが、どう見てもこの撤退作戦は非常な無理を伴うことは明らかだ。
制空海権は全く敵の手中にあり、我々は孤立無援の状態にあるのだ。それであるから撤退作戦は隠密の裡に進行していた。

撤収部隊の艦隊は、幌筵島からキスカに向かうこと2回目にして成功したという。
或る時は味方同士で衝突したり敵潜に発見されたりしたそうで、その苦労は察するに余りある。

一方、助けられるこちらも7~8回の撤収準備をして海岸に集合を繰り返した。
そして最後の予定日、7月29日は例によって朝から撤退準備に忙殺されていた。本当に来てくれるのかな…。

何時ものように湾口の方を見ると朝からの濃霧ですぐ対岸の松ヶ崎もよく見えない。
“今日も駄目か”と思ったり、“こんな日に撤退できれば敵に発見されなくて済むのになあ”と思ったりした。

10時になると霧も大分上がり海面から3~40mくらいまでよく見えるようになった。
小浜海岸には陸軍の兵士たちも続々と集結中である。

その時、誰かが「艦だ!」と叫んだ。
見ると、松ヶ崎の先端の洋上に黒いものが見えて、先頭の艦からは信号探照灯でパカパカと信号を発している。その信号は「我味方なり」との合図と分かった。

その直後、突如として艦砲射撃があり、湾の中央部に着弾爆発した。
“敵だ”そう思って「おい逃げろ」と夢中で叫んだが、砲撃は2~3発で止んだ。

あとになって聞いたところでは、救出艦隊が湾内の沈船のマストを敵潜水艦の潜望鏡と勘違いして砲撃したようだ。
我々は一瞬不安と絶望で混乱した。
<事実は巡洋艦の阿武隈が小キスカ島前方の岩礁を敵艦と錯覚、雷撃したものである>

間もなく艦隊は2隻、3隻と見えてくる。
その中に特徴のある三本煙突は軽巡の木曽だ。
“オオ、イイゾ”
おのずと胸がはずむ。

当隊には兵舎、兵器類の処分命令が下り、機銃は分解して便つぼに投げ込んだ。

実は艦隊入港前、敵機がキスカに進入を試みたが、霧の為視界不良で引き返したと電探から情報が入っていたので助かった。
“いよいよチャンス到来だ”そう思う反面、“これから先何が起こるか分からん“という不安も拭えない。

救出艦隊は軽巡洋艦の阿武隈・木曽のほか駆逐艦9隻、その堂々たる姿が狭い湾いっぱいに見えた。
艦が停止する頃には海岸にいた先発隊は既に大発に乗り定められた艦に向かって突進していた。

特潜隊では分厚い毛皮のついた外套を積み重ねて燃やしていた。そのニオイが臭くて参った。

私は定められた処分を行い、我が特潜隊の浜、小浜海岸より終わり頃の大発に乗り、振り返ってみると、2隻の最終の大発に兵隊たちが乗り込もうとしていた。
その兵たちに混じって、白い犬が一生懸命尻尾を振って走り回って、「一緒に連れて行って」と願っているみたいだ。
その姿は哀れだが、犬は島に残された。

遠ざかっていく海上から見ると兵舎附近からは黒い煙が上がっており、可哀そうな犬が白い点となって右往左往していた。
“キスカよさようなら”と私は心に叫んで手を合わせた。

私の乗った大発は収容艦である駆逐艦響に近づいていった。
指揮官が大声で「小銃、手榴弾を海中に捨てろ」と号令、皆一斉に投げ捨てたら、響の乗組員がこれを見て「投げるな、投げるな」と叫んでいたが、その時はすでに全部海中に捨てた後だった…。

乗艦すると艦の乗組員が「マゴマゴするな、早く艦内に入れ」と大声で怒鳴っているが、上甲板から下に降りる階段の入り口附近には、大勢詰めかけているから中に降りられない。

早くも艦は湾口の方向に向かって動き出した。私はどうにかこうにか下甲板の吊床格納庫に居住することになったが、一人がやっと腰を下ろせる程度だ。
その間に軍艦特有の匂いと人の息で気分が悪くなったが、そんなことを言っているどころではない。

その頃、艦は全速に近い速度で走っていたのだろう、艦が大きく左舷方向に傾く。
多分湾口を出た艦は外洋に出て右に急転針したのだろう。
翌30日の朝、上甲板に出て見ると凄い波しぶき。艦は前後左右に大きく揺れ、乗組員は太いロープを伝って甲板をやっとこ歩いていた。

2日目の午後、上甲板にいると誰かが西の空を指して「飛行機だ」と叫んだ。
敵味方不明だが、艦内は騒いでいる様子もない。それでは友軍機だろうと思う間もなく、艦の上空に飛来して来る。
見ると、翼には日の丸がはっきりと見える。

誰もが夢中で手を振れば、機も翼を左右に振っている。
ああもう日本の制空権内に入ったのだ、戦友とも良かった良かったと言ってなんとも言えない感激で胸がいっぱいだ。
よーし助かった。

3日目、31日の夕方、艦隊は単縦陣で幌筵島の片岡湾に入港した。
在泊の貨物船や漁船がいっぱいありいっせいに汽笛を鳴らし、どの船からも船員さんが手を振って迎えてくれた。

その後、小高い丘の上のバラック兵舎に収容された。
その日の夕食には少量の酒とカマスに入ったタラバガニがドンと出た。

嬉し涙が止まらなかった。

#祖父 #太平洋戦争 #帝国海軍 #キスカ


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