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将がまず先陣をきれ

戦国大名 蒲生氏郷

●安土・桃山時代の武将、蒲生氏郷が家臣たちにかねがね教え、自らも実践していたのが「戦場での先陣の切り方」だが、当時の武士団の戦いの仕方には後世の人が想像するほどに「命をまとに、主君の為に」という忠誠心は少ない。大半の家臣団、下級士卒の考え方は「あわよくば一山当てて、己の稼ぎにもしたい」と、戦場すなわち稼ぎの場だったわけだ。

●それだけに、先陣の切り方は難しい。敵方の動きをよくよく見究めて「ここぞ、いざ!」というところで、大将がまっ先に立たないことには、危険をおそれて部下の武士団はついてこない。まして足軽など下士卒が敵を相手に殺し合いなど、なかなか始めるものではなかった。

●氏郷はそれを「統率者たるもの、一瞬の好機をとらえて、自ら先陣に立たないと戦いは決してうまくいかぬ。自ら立つときの判断が大切だ」と教える。

●氏郷は豊臣秀吉の下で、さまざまの戦いに戦功のあった武将だが生まれは近江・日野の城主だった蒲生賢秀の長男なのだから、この時代の小豪族の御曹司である。

●彼が十三歳になったとき、近隣の実力者だった織田信長のもとに人質として差し出されて、故郷日野城を信長の庇護で安堵してもらう。信長のもとで育ったことが、彼の少年時代の性格形成にひびいているかもしれない。

●初陣は翌年の伊勢・北畠家攻めだが、このとき大河内城攻略に向かった氏郷の働きが十四歳にしてはなかなか見事だと信長が気に入り、末娘の冬姫を氏郷の嫁にさずけたくらいだから、信長が明智光秀の反乱に殺されなかったら、彼は信長の婿の一人として運命は変わっていたかもしれない。想像をたくましくすれば、信長の跡目に天下人になったかもしれないのだ。

●が、後継者が豊臣秀吉に決まると、氏郷は秀吉に仕えて北陸・柴田勝家の攻略戦で働く。この戦いぶりが秀吉に気に入られ、徳川家康との小牧・長久手の戦いでは秀吉軍の重要武将として待遇されている。

●氏郷はこの時期、かなりの先見性で蒲生家の存続のために働いている。つまり、次の天下人は秀吉になる、と読んで、秀吉に対立するであろう実力者の柴田勝家、徳川家康を秀吉のために叩いているのだ。なかでも勝家は信長の妹を嫁にした武将だから、信長の婿の氏郷にとっては義理の叔父にもあたる。が、その係累的な考え方を戦国武士風に無視してかかっているところも彼らしい。

●秀吉は、こうした氏郷の功に伊勢・松ヶ島十二万石の領地を与えて報い、さらに朝鮮出兵と小田原・北条家の攻略がすむと、氏郷を会津四十二万石(のちに加増されて九十一万石)の大大名にとりたてている。

●秀吉にすれば主家織田の一族である氏郷に特別な考慮もあったのだろうが、よほど彼の人柄を信用してのことであったにちがいない。

●氏郷が連歌、茶道など当時の武将としての教養に通じていたばかりか、キリスト教の洗礼を受けて「レオ」という受洗名をもっていたことも、秀吉はある種の畏敬を感じていたのか。

●さしずめ現代なら地方の御曹司が中央企業に入社、意外なヤリ手ですいすい重役になったようなものだ。性来の攻撃精神が、ふんわりとした生まれのよさに包まれている。そんなリーダーが「将がまず先陣を切るべし」というのは、なかなかに重みがある。

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