プレゼントのような言葉と、ラブレターみたいな文章が、好き。
「ありがとう」
そう言われて嬉しいときと、そうでもないときがある。
友だちや仲のいい人、好きな人に言われる「ありがとう」は嬉しいのに、コンビニやスーパーで言われる「ありがとうございます」には心が動かない。何でなんだろう。
それはきっと、その言葉が私に向けたものではなく、みんなへ向けた言葉だから。
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鴻上尚史さんの「あなたの魅力を演出するちょっとしたヒント」に、言葉には3つの種類があると書いてあった。
(「結婚式の手紙」が感動的な理由 プレゼンに活かす「3つの輪」より)
先のコンビニの例では、私と店員さんの状況は第2の輪なのに、マニュアル通りの「ありがとうございます」は、第1の輪のひとりごと、もしくは、第3の輪のお客様みんな(one of them)へ向けた言葉になってしまっているということ。
そういう言葉は聞こえていても、心には届かなくて少し寂しい。
話された言葉は私へのものではないから、宙を彷徨い消えていく。
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ふたりで話してるとき、きちんとあなたと話す言葉が使えているかというと、できていないことも少なくない。
例えば、仕事で初めましての方と話しているとき。相手と心の距離を上手くとれなくて、自分を守るように遠慮してしまうことがある。
提案がいつも話していることのひとりごとになってしまったり、「お客様」に伝える話し方になってしまったり。
だけど、自分の状況に関わらず、目の前の「あなた」にまっすぐ言葉を届けたい、というこの気持ちは忘れないようにしたい。
そうやって相手のために話した言葉は、心に残るプレゼントだと信じているから。
自分らしく生きる女性を祝福するライフ&カルチャーコミュニティ"She is"の「父からもらった一冊の本がまるでラブレターのようでいて」という記事に、こんなことが書いてあった。
サン=テグジュペリが妻に送った最後の手紙には「きみしかいない」という言葉と共に、「戦争から生還したら、もうトゲのあるバラではないきみが王子さまを待つ『星の王女さま』という続編を書く」という主旨の約束が記されています。また、彼の母親も「『星の王子さま』は息子の愛の感動的な証言である」と語っているそうです。この本は、こどもや、かつてこどもだった大人たちに宛てられた小説であると同時に、全体を通して愛の話であり、妻に対するラブレターなのです。
はくるさんと同じように、これを読んだ私はすごく嬉しかった。
世界にはまだまだ私の知らない愛の詰まったラブレターがあることを知ったから。
テレビのニュースを見れば暗くて嫌な話ばかりだし、未来への不安や寂しさを感じることはなくならないと思うけれど。世界の美しさや、愛から始まる作品の存在を知っていることは、生きる希望になる。生きたいと思う理由のひとつになる。
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受けとるだけでなく、自分もラブレターを届けられる人になりたい。
noteを書き始めたのは、いま思うことを書き留めておきたい、という自分本位なものだけれど。書いているうちにだんだんと、あの人に届くといいな、と思うようになった。
喜んでもらえるかな? 何か感じてもらえるかな?
そんな気持ちをこめて公開ボタンを押す一瞬は、私にとって特別なもの。
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