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アマニータ・ビスポゲリゲラ

睡眠薬は、もともと寝付きが悪いという理由から服用していたものなのだけど、酒の飲み過ぎなのか煙草の吸い過ぎなのか、はたまたそのどちらもなのか(どちらもなのかもしれない)、何にせよ最近のおれにはてんで効かなくなってしまった。

医者が言うには日に2錠が限度らしいのだが、そもそも質のいい睡眠を手に入れたいがために処方してもらった睡眠薬を、身体にわるいとか肌が荒れるとかいったくだらない理由から制限していたのでは本末転倒だと思った。別におれは多少体調を崩すくらいならば気にしないし、肌にいたっては日に吸う60本の煙草のおかげで見事にガサガサだ。これ以上はもう荒れようがないのだ。

というわけで色々と理由付けした挙げ句、おれは医者との約束をやぶって睡眠薬を5錠飲んだ。別に3錠でも倍の4錠でもよかったのだけど、2.5倍のほうがにこにこ(2525)していて語呂がいいと踏んだのだ。なので当然、おれはにこにこしながら布団にはいった。横で寝ている妻が気持ち悪いと文句を垂れる。知ったことか。おれの表情筋が伸びたり縮んだりするのに、どうして妻の許可がいるのだ。おれは頭にきたから、妻の前でものすごくにこにこしてやった。そしたら妻は、有無を言わさずおれを殴った。さすが、極真空手の門下生だ。おれ自身は極真空手を馬鹿にしまくっているが、そこで鍛えあげられたパンチだけは格別だ。その証拠に、おれはそのまま布団に倒れ込み気絶するようにすやすや眠った。


朝起きたら、妻は既に仕事に出かけていた。
時計を確認すると、もう昼の十二時をまわっている。おれの勤める会社は遅刻にはわりかし寛容な方なのだが、なんだか気分が優れないので有給をとることにした。さっそく部長の携帯に電話をかける。部長の携帯の呼び出し音は海援隊の『母に捧げるバラード』だ。しかし部長は大学生のとき母親の殺害未遂で前科があるので、およそ笑えない冗談に思えた。武田鉄矢のヴォイスが流れるかどうかというところで、部長はおれの着信に応じた。

『おう、田辺か。こんな朝はやくにどないした』

「朝はやくもなにも、もうお昼ですよ部長。実はわたくし、睡眠薬の摂りすぎで体調がすぐれないのです。申し訳ありませんが、今日はお休みさせていただけないでしょうか」

『ほう、睡眠薬をか。なんぼ飲んだんや』

「はあ、ベルソムラの錠剤を5粒ばかり」

『どあほっ。ベルソムラを5錠も飲んだら、ラリって死んでしまうぞ』

「ああなるほど。昨日いい気分だったのは、単にラリっていただけだったのか。嫁の前でずっとにこにこしてたんですよ。セックスのときだってあんなににこにこしませんのに」

『にこにこするのは麻雀のときだけで十分や。七対子はぜんぶの牌2こずつ集めよるから、にこにこ(2個2個)ってわけや。わしなんてあれ、にこにこしながらサンピンを4枚にウーワンを4枚、リャンソウを4枚、そんでアタマにチュンをこしらえて見事アガッたことがあるんやで』

「たしかにすごいですけど、そんなの三麻でしか通用しないんじゃないですか。4人麻雀はそんな七対子じゃあがれんでしょう」

『さすが、田辺は鋭いなあ。せや。確かにスーカンツ並みにすごいことしたったんに、そんときは役無しのチョンボあつかいやった。しかもそんとき同卓しとったんが今の社長でなあ。そこそこ育っとった手をわしのチョンボでつぶされて、まあ怒り心頭やったなあ。『このクソガキっ!わしを誰やと思とるんや。部下なら部下らしく、上司に華をもたせんかい』ってな』

「はあ」

『そんで、なんの話をしとったのだっけ』

「ベルソムラをたくさん飲むと、ラリって死ぬという話です」

『ああ!せやせや。ええで、大事な部下に死なれちゃわしも困る。面倒ごとはわしがやっといたるさかい、今日はゆっくり休んでクスリ抜いとき』

「すいません。よろしくお願いします」

電話を終えると、おれは昨晩のことについての考察をはじめた。それはすなわち、昨日の熟睡は睡眠薬によるものなのか、はたまた妻のパンチによるものなのかの考察だ。だけどおれのなかで、何となくではあるが答えは出ていた。妻のパンチに決まっている。12時まで寝てしまったのは睡眠薬のしわざであろうが、今日のおれの睡眠の7割以上は睡眠というよりは気絶のようなものだった。睡眠薬はあくまで助長にすぎず、効いたのは妻のパンチだけだ。

しかし困ったことになった。これでは睡眠薬が効いたのかどうかわからない。2錠だと効果がうすいが、5錠飲めばラリってしまう。それならば4錠か。いや、この国で死を連想させる4はまずい。3錠にすべきか。しかし、あれほど効き目のなかった2錠に申し訳程度に1錠足して、効果が期待できるかどうかと効かれたら甚だ疑問だ。これならもういっそのこと、おれの中のクラシック(標準)を5錠に定めてしまうのも手だとおもった。現におれは昨晩5錠飲んでみたが、ラリりはしても死んではいない。実際あれがラリっていたかどうかも怪しいところだ。
何かがおかしい気がする。昨晩と違って妙に頭が冴えてるようだ。もしかすると昨晩飲んだベルソムラが、まだ体内に残っているのだろうか。冷静に考えたら、一晩寝て起きただけでクスリが抜けるとも考えにくい。けれどラリるのと頭の冴えとでは、ニュアンスがほんのりちがう気がする。あたまがシャキっとなったり、いわゆる万能感のようなものを感じるのは睡眠薬というよりは覚醒剤の役割ではないか。睡眠薬の過剰摂取で引き起こされたラリりは、万能感というよりは、きっと酩酊感に近いものなのではないだろうか。極上のノワール小説を読んだときや絶妙な韻を踏んだミュージックを聞いたとき、読み聞きするほど深みにはまり永遠に彷徨っていたくなるときの感覚にとてもにている。それはたとえば琵琶湖で、姿勢をほんのすこしねじってやればたちまち乳房が出てしまうようなきわどい水着をきた女の人が、「ここは汚い海ですね」とおれに対して笑いかける。しかしその笑い方が目をおおいたくなるほどに汚くて、けれどおれの肌は、カタツムリを這わせれば10歳ほど若返る。高校のときの先輩からきいたことがある。カタツムリの生殖孔にはコラーゲンがふんだんに含まれているので、おれがどれだけ煙草を吸おうが、カタツムリが1匹いるだけで安心だ。これで心置きなくベルソムラを何百錠も飲むことができるのだ。おれの求める酩酊は、たとえば新入社員に「グローバルなオポチュニティ」とのたまわれたときの感覚や缶コーヒーのプルタブが粘土でできていて指をひっかけようとしても奥に食い込んでしまいどうにもならなかったときの感覚、もしくは手垢にまみれたフォント見本帳の隙間に挟まったラブレターを引っ張り出し紙飛行機をつくって昔住んでた家に向けて飛ばしたときのあの感覚、もしくは水面にたゆたったデラシネに水鳥が足をとられ、そのまま溺れ死んでしまうときの感覚にも近い。牧師がアフォリズムを模して紡ぐクソの役にも立たないことばの羅列、ひょっとこの面を被った機関車トーマスとシンセサイザーを奏でながらスラム街を歩くトップハムハット卿、仔猫の脇腹にたかる大量のウジ虫とティッシュの空き箱だけで建てられたガキ大将の祖父母の実家、中身が水銀の百円ライターに柄の部分が削ぎ落とされた肉切り包丁、夜の埠頭でおれの帰りを五百年間待ち続けた愛すべき友人、豆電球ほどの大きさしかない太陽と、それの周りを周回する大型のドローン、右耳と左耳が入れ替わった秘境のチンチラと、ペニスしか咥えたことのないエケコ人形、文鎮を睾丸に埋め込まれた高校生と、手足がにょきにょきと生えたチョロギ、ヤハウェの眼前でセックスをするエホバの証人と、顔をテトラポットに変えられた親友の彼女、それか、明日の昼までに会社に上げねばならないピンクパンサーとストロベリー・クイックの色味の差異についてのレポート文。錦戸晃の騒がしくも哀愁ただようライヴを見に行ったあと、冷凍庫の内臓されたトラックの隅で煙草をふかす。おれの吸っている銘柄はたしかセブンスターだったはずだが、そのときはなぜかアメリカンスピリッツの8ミリを咥えていた。だけど天皇陛下の御前で「令和は健康に気を遣っていこうとおもってます」と宣言した手前だ。愛煙する銘柄を無農薬のものに変えてしまうのも悪くない。長年付き添ったセブンスターとお別れするのは少々名残惜しかったが、よく考えたらおれは豊川悦司が大嫌いだったので、丁度いいタイミングとも言えるだろう。ぎっしりと詰め込まれたアメスピの葉っぱを孫でもかわいがるように丹念に燻す。3分の1ほど灰にしたところで、銘柄がアメスピからゴールデンバットに変わっていることに気付いた。ゴールデンバットを嗜んでいいのはハードゲイかプロレスラーだけの筈なのに。だけど大丈夫だ。なぜならおれは根っからの同性愛者だしプロレスラーでもあるからだ。こいつを吸うのにはなんのためらいもない。全然うまくない煙草を吸い終えたあと、吸い殻は地面にポトリとおとした。暗くてよく分からなかったが、その吸い殻のフィルターにはセブンスターと書かれている気がした。なんだ。おれはアメリカンスピリッツを吸ったと思い込んで、ゴールデンバットを吸ったと思い込んで、結局ずっとセブンスターを吸っていたのか。なんてお得なんだ。たばこ税は上がったが、おれには1本の煙草を3倍楽しめる能力が備わっていたのだ。ざまあみろ。そしたら、軟水と硬水を混ぜ合わせて作った軟硬水氷を作ることにした。氷にしてしまえば違いがまったくわからない。おれは買ったままそれきりになっていたかき氷機を引っ張り出してきて氷を削った。灰皿に山盛りになったかき氷を見て、おれはなんだか愉快な気持ちになった。そういえばおれは、むかし与那国に旅行にいったときグラスホッパーの柄のワンピースで着飾ったお洒落な女の子に会ったときのことを思い出した。いかんせんグラスホッパー柄のワンピースなので1ミリもお洒落じゃないのだけど、そもそもおれに洒落っ気というものが欠片もなかったので気にしないことにした。だけどなぜ一瞬とはいえその女の子をお洒落だと感じてしまったのかだけは気になるところだった。それでも気にしないことにした。なぜならそれが大人というものだからだ。人生は答えではなく問いに依って成り立っているのだ。答えを得ることは結果であって目的ではない。目的はあくまで、問いの一辺倒であるべきなのだ。奥歯に挟まった木耳が妙に鬱陶しい。何とか取れぬものかと舌先で弄くっていると、なんとか木耳をとることができた。胸がスッとしたと思ったのも束の間、おれが木耳と思っていたそれは、30センチはあろう女のものと思しき長い髪の毛だった。こんな髪の毛を家に置いておいたら、妻になんと言われるかわかったものじゃない。どこかに処分せねばと辺りを見回していると、おれが小学生のころ県のコンクールに入賞したときの版画があった。ハブとマングースならぬ共闘したハブとマングースと戦う先生の版画だ。このあと先生はマングースに首の骨を折られ絶命し、その死体はハブが綺麗に飲み込んでしまうのだ。おれはそんなことを考えながら、にやにや笑った。

「ちょっと、あなた。にやにやしないで。気持ち悪い」

おれはハッとして妻を見る。どうやら、知らぬ間に起こしてしまっていたようだ。

「おれの表情筋がどう伸縮しようと、おれの勝手じゃないか」

妻は呆れた様に首を振り、薄く微笑んだ。

「明日も朝早いんだから、早く寝ましょ。あなた、いつもお疲れさま」

「ああ、そっちもお疲れさま。いつもありがとう」

「こちらこそ」

そう言うと妻は、またすやすやと寝息を立て始めた。両手にかいた汗を拭うと、背中も汗でびしょびしょであることに気付く。仕方が無いから風呂に入ることにした。

特に意味はないが、睡眠薬は2錠に留めておこうとおれは思った。

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