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美容は自尊心の筋トレ

という本を読んだので感想も含めて最近考えてることをいろいろと。

どこで知ったのかを覚えていないのだけれども、タイトルにピンときてAmazonで注文しようとしたら品切れだったのがようやく届いた。

「モテようとも若返ろうとも、綺麗になろうとも書いていない、化粧品もちょっぴりしか載っていない美容本ができました♡」

というコンセプトの美容本。

すごくとっつきやすくて読みやすかった。自分自身を大切にすることを習慣化したり、狭く凝り固まってしまった美意識をストレッチするための考え方がやさしくユーモラスに、たくさん書いてある。読み終わったあとはいつもよりちょっと自分を大切にしてあげたくなる。そしてこれからも大切にしたいなと思える。

わたしはこの1年で自分の自尊心はだいぶ育まれたと思うけれど、それでももっと奥に根深く染み付いている自己否定が刺激された。見えないふりをしていることとか。刺さって陥没しきっていた棘のようなコンプレックスとかが。

この本は、1章のいちばん最初に「この世にブスなんていない」と断言されている。センセーショナルだ。あとのすべては著者がなぜそう思うか?ということをいろんな角度から説明してくれている本だといえる。

わたしは昔から自分の容姿に自信があるわけじゃないんだけど、それでも自分のことを「ブスだから~」と自虐したことはない。たぶん。なぜだか、ブスとだけは自分で言ったらおしまいだと思っている。それは家族など身近な人間に他人をすぐ「ブス」だと罵る人がいなかったのも大きい。
来世は美少女になりたいとは言っていた。これは単純に、今世の自分の顔面が推しじゃないのだ。自分の顔推しじゃないんだなと理解したのはまだ最近のこと。パーツごとに分解したらマツゲが長いところは推せる。

学生時代、友だちがかわいいと褒めてくれたときにめちゃくちゃひねくれてたのと卑屈だったので「具体的にどこが?」とか聞いてしまったことがある。なんてめんどくせぇ女だ。しかしその友だちはすごく考えて「全体的なバランスがいい」と答えてくれた。もう現在は交流のない子なんだけど、これは忘れられない。今となってはとても感謝している。そのときは理解できず「なんだそれ…」と思ったけども!

この本を読んで、わたしは間違ったOSをインストールして生きてきてしまったんだなと理解できた。でもOSはバージョンアップして書き換えることができる。(この表現、本にあったんだけどすごく的確)

わたしは自分の名前が好きではない。きらびやかなイメージのある漢字を使っているので、他人から名前と自分の顔を見比べて「その顔でこの名前(笑)」みたいに思われている気がしてならなかった。
実際わたしはかわいいもの(ロリィタ的なもの)が昔から好きなので、名前の漢字とひっかけて「勘違いしてんじゃないの(笑)」みたいな陰口は言われた。

現在、大好きなお友だちにはほとんど学生時代からずっと名前を由来としたニックネームで呼ばれているが、これはもう全然気にならなくなっている。正直にいうと学生時代はわりとはずかしい気持ちもあった。
この理由はもうすっかり定着化していることと、お互いに愛を持って接しているからだと思う。誰もわたしを貶そうなんて思わずに、ただ単純に愛を持ってわたしを呼んでくれていると信頼できる。

しかしそう気づくまでにかなりの時間はかかった。逆に、みんなすごくいい子たちでなんにも不安になることなんかなかったのに、どうしてそこまでわたしは卑屈だったのだろうという気持ちがあった。
その理由はP52-54の「その「私なんて」どっからきた?」の中に書いてあった。

物心つく前のほやほやの心、スポンジのように吸い込みのいい脳に刻まれた、醜くて取るに足らない自分像は、拭い去るのに時間と根気がいる。

思い返してみれば、わたしが自分自身を好きになれないと思うような出来事があったのはすべて、今仲良くしているお友だちと出会う前の出来事ばかりだ。
そんな昔のことを忘れられないなんて、と思っていたがこの一文を読んで自我がはっきりしないころについてしまった傷を、そのまま抱えつつ自我を持ってしまったのだから仕方ない。という考え方がすんなりとインストールされた。

「私なんて」と思ってしまうのは、文化や環境や人間関係などいろいろな原因が複雑に絡み合っていることが多く、あなたのせいではない。一方で、その私なんて無間地獄から自分を救出できる勇敢なヒーローは、あなた自身なのだ。

自分で自分を貶さない、を実践してようやく1年たつ。それでもわたしってダメだって思うことがないわけじゃない。いっぱいある。でも立ち直りは早くなった。たまにはダメ出しをしたいこともある。自分に怒ることもある。

なんでこうなの?なんでできないの?なんで続かないの?という自問に対して、昔はすべて自分がダメでクズな人間だからという自答をしていた。
今は、それらの自問に対して自分はそう思っているんだなとだけ客観的に捉えられるようになった。

自分にできないことがある=ダメでクズな人間だから。 という思い込みは崩れ去った。
自分にできないことがある=正しいやり方、自分にあった方法を知らないだけ。これから知ればいいし、調べたり試したりすればいい。あと向き不向きもある。

自分の顔面推しではないけど、それもそれで理由としては顔の造形云々よりも体質だったり残っている痕だったりする。どうしても気になっているのならどうにかする方法を調べればよかったのだ。調べもせずに「どうせわたしは●●だから無理」と諦めていた時間のなんともったいなかったことか。
化粧をしたって顔立ちが変わらないからする意味がわからないとも思っていた。それは逆に、自分の顔の造形自体は変えてしまいたいほどの場所はないということだ。バランスはいいのだから。

これはこの本を読む前の話だが、斉藤和巳さんのトークショーに行くため基礎的なメイクを改めて調べ実践してみたら、普段とはすこし違う雰囲気の自分が鏡の中にいてうれしくなった。なんだ、基礎を調べずなんとなくやってたから「やる意味あんの?」みたいなふうにしかならなかったのか、という気づきを得た。
目の前にめちゃくちゃ好きだった選手がいても「今日のわたしはかわいく化粧してきた!」と思うと緊張はすれど会うのが楽しみでもあった。うまくしゃべれなかったけど、チェキを撮ってもらったときも握手してもらったときも「わたしなんかとすみません」みたいな気持ちは一切生まれてこなかった。というか昔の自分だったらチェキは撮ってもらわなかっただろう。

今すぐ手放しで「わたしってイケてる!」とまでは思えなくても、今世のわたしは絶世の美少女じゃなくても、自分で自分を傷つけなくなったわたし自身のことは、昔よりずっと好きだ。

この1ヶ月くらい、うさぎのみみちゃん炎上問題について考えていた。未だに謝罪の一つもないまま漫画の更新を続けているのはもう怒りを通り越し心底呆れている。こんなのがロリィタの看板を持ったまま発言を続けるなんて嫌だ、許せない、やめてほしいと思う。とても。

でも書籍販売後サイン会の爆死っぷりとか、最近の迷走漫画を見ていると、この人は今のままだとこれからもさもしい人生を送るだけなんだろうな、としか思えない。そしてそんな他人のさもしい人生を、これからも見守る必要は一切ない。わかっている人はわかっている。じゃあもうべつに嫌だとか許せないとかで目くじらを立てる必要はないかな。

うさぎのみみちゃんに共感する!って人ほど、この「美容は自尊心の筋トレ」を読めばいいんじゃないかなと思う。
自分の好きと嫌いを発信することは悪いことじゃない。だけど他人をいたずらに攻撃していい理由にもならない。これは自戒も込めて。(つい自カプに対して過激な発言をしがち)

わたしはロリィタファッションが好きだし、かわいいお洋服を身に纏う自分をこれからも好きでいたい。それは誰のためでもない自分のため。
だから自分をないがしろにするようなことはもうしたくない。自分と他人の境界線はしっかり引く。これは曖昧になりがちなので何度でもいう。

まあそれでもうさぎのみみちゃんは「自分は自分、他人は他人」と連呼してるわりに過去ふくよかな体型の人やノーメイクの人を執拗にdisりまくってたことについて、特に謝罪も釈明もしないままなのはどうかと思うけど。考え方が変わったならそういえばいいだけの話なのに。

自分を大切にすれば、他人をむやみに攻撃する気にもならない。そんな暇があったら自分のケアに時間をさきたいから。
これからもわたしを表すカテゴリは「ジャンル:ふらみんちゃん」の自分自身だけとしていきたい。なぜならそういう自分が好きだから。

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