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猫の看取り日記#3

こちらの記事の続きになります。

Z 日
家の中で移動するたび、骨壷も一緒に持っていくことにした。
骨壷を撫で、語りかけることにも少し慣れてきた。
骨壷を包んでいる布はシルクで手触りがいいのがよかった。
昔の元気な頃の動画を見たら少し笑えた。おやすみなさい。

A 日
毛鋤きをするたびに取っておいていた毛で
猫毛フェルト細工なるものを作った。
可愛くできて母は喜んでくれたけれど、
私はなんだか虚しくなってしまった。
ここに魂はないのに。
マヨ照り焼きという油ぎったものをなんとか食べて、
元気を出そうと思ったけれど、
やはり虚無感に襲われるだけ。
別の方法も試みたけれど、どれも失敗に終わった。
結局時間が癒してくれるのを待つしかないのか。
ただ、あの子が亡くなる前、
頑張って強く生きるね、と約束してしまったからしょうがない。
今から大学選びを始める。とてもそんな気分じゃないけれど。

F 日
初七日が終わってしまった。
学校が始まったらいつも通りの日常を過ごし、
日記を書く暇などなくなってしまっていたことがなんだか寂しい。
友達と一緒にワイワイできる私はもう立ち直ったのだろうか?
泣くことも無くなった。洪水は引いた。夜が明けた。
その代わり、少しずつ残り水が侵入してくる。
ひたひたと足を湿らせ、動く気力を奪う。
日の光で少し乾いても、また夜には濡れている。
この水はどうやっても拭えない。

H 日
死とは能動的なものだろうか、
受動的なものだろうか、と
ずっと考えている。
死ぬとは、生を全うするということだろうか、
それとも心臓が動けなくなるということだろうか。
死ぬ前のかわいそうな姿ばかりが蘇ってきて、
いやそれじゃあ本人、いや本猫が報われないと思って、
あの子は本来自然の中で生きていたから、
定められたままに懸命に生きて死んでゆく、そういう生き方をしたんだ、と
考える。
今までお疲れ様。ありがとうね。

I 日
失って初めて気がつく。陳腐な言葉。散々言われてきたこと。
正確には、その存在には失うずっと前から気がついていた。
私が猫を愛しているということは生前から自分でわかっていた。
失ったら、などと考えることすらしたくないくらい、
大切な存在だと知っていた。

けれど、このどこまでも続く空虚感は想像できなかった。
最大限愛していると思っていたけれど、それよりもっと、
私が生きるのに必要不可欠な存在だった。
常にそこにいるのが、いてくれるのが当たり前で、
実際にそこにいないこの世界というのは想像できなかった。
帰宅した時。夕飯を食べ終わった後。風呂から上がった時。
寝る前。起きた瞬間。家を出る時。
あらゆるタイミングで、ああいない、と気づく。
探すことはしない。
母はすぐそこに隠れていて
なんてことなしに出てくるんじゃないかしら、なんていうけれど、
私はそうは思わない。
私が生きている限り、あの子にはもう会えないということは、
やけに腑に落ちている。
だから、動けない。
いない。会えない。触れられない。声を聞けない。話せない。寂しい。

死というのは、本当に悲しいものですね。
次回で一旦日記は終わりかな。

それではまた。

るり


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