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視線恐怖症の苦しみを想う(乗り越えた今振り返る)

 これから記すのは、過去に酷い視線恐怖症を味わった者の振り返りです。自分の心の整理の為に書いてます。


 以前から視線恐怖症の悩みを、"自意識過剰"、"誰もあなたのこと見てないから安心して"、"気にしすぎ"と言われるのは、アドバイスや親切心からだとしても、心外だと思っていました。(実際に親切な方に言われたことがある)

"お前のことなど、誰が注目して見るものか!そんなわけないだろ!気にもかけてないさ"
必死に自分で自分に、繰り返し心の中で暴言めいた言葉を浴びせかけても一向に苦しみは減らなかったからです。(今思い返すと、随分と自分を痛め付ける酷いやり方であったと悲しくなります)

 そんなことをしていたので、次第に症状は悪化し、ついには自分の目を鏡の中に発見するだけで酷く動揺して、嫌悪感と恐怖でプチパニックに。鏡を見る事が、とてつもなく苦痛になってしまいました。

 このように、視線に恐怖を否応なく感じて、意識を離すことが出来ない状態はそれだけで苦しいものです。他人から注目されたいなどの中二病のような生易しいことの延長ではないのです。コントロール出来ない意識の偏りがあると思います。

 そもそも、自分が注目されていると勘違いしてるわけでもないし、目立ちたいどころではないのです。
 むしろ自分が人から見られてませんようにと祈り、自分が透明人間であったならばと妄想するほどなのです。
 柱があればその側で隠れるように柱にひっそりと寄り添ってました。いざとなれば柱の影に避難するか、もしくはいつでもその場を素早く離れる事ができるように、出口付近に陣取るのが常で、いつも不安でした。


 そんな視線恐怖症には4つのタイプがあると言われてます。
1)自己視線恐怖症:自分の視線が相手に対して、不快感を与えるのではないか、と考える症状。
2)他者視線恐怖症:相手の視線を極度に恐れる症状。
3)正視恐怖症:人と距離が近いときに、目を合わせることに対して恐怖を抱く症状。
4)脇見恐怖症:相手の視線を過剰に意識し、その中に含まれる自己評価や相手の不快感などを恐れるタイプ。


 私は、自信のなさからの正視恐怖症のみでスタートし、最終的には上記の4つとも全て網羅してました。   
 
特に脇見恐怖症は、自分が視線を向けてなくても、意識だけでも他人に不快感を与えているに違いないという思い込みが苦しみを増幅させました。もはや自分がどこを見ていればいいのか分からず、俯いてばかりいました。周囲に迷惑をかけているのだと、自分を責め立てていました。

 時が経つにつれ、醜形恐怖や対人恐怖など、○○恐怖というものは、かなり併せ持っていたように思います。

 同じような体験をされた、もしくは今現在苦しんでおられる方ならば、共感して頂けるのではないかと思います。そして、その方々の苦しみを深く深く想います。


 私は当時、心療内科で薬物療法やカウンセリングを受けました。でも薬への依存(薬忘れるとパニックになるくらいの)もありましたし、頭がボンヤリするので苦痛は鈍りますが、何とか生きてるという感じが否めず、疑問を感じてました。

 私は鍼治療によって全身を整えて貰って、結果的に心も救われました。こんなことがあるのかと本当に感動しました。

 東洋医学の力は本当に凄いです。このような絶望が光に変わる素晴らしい感動をたくさんの人に体験してもらいたいです。(鍼灸マッサージ師になりたい動機の一つです。)

 心療内科通いも薬も必要なくなって3年以上経ちます。
 今でも時々、症状が軽く出てきて揺らいだりしますが、休息や自分の心地よいことを大切にして乗り越えていけています。


 自分を愛して、大事にしていこうって思える今の自分があることに、心の底から感謝しています!

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