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3. ハマル神父

エレナが坂道を駆け下りるほんの少し前、エルは守衛たちの追跡を逃れて同じ坂道を登っていた。

足腰に自信のあるエルでさえ、凸凹ばかりの坂道には閉口した。古代、この坂の上の台地に城砦が築かれ、外敵の動きを常に探査していたという。

「……!」

エルはあまりの美しさに目を奪われた。彼の背後にはウノ市街のまばゆい夜景と湾港に停泊しているいくつもの船、そしてまっくらな近海の様子がはるか遠くまで見渡せた。

しばしの間、彼は昼間のことを忘れて夜景に見入っていたが、無粋な声に意識を遮られた。

「ここはすでに閉門されているぞ」

エルが振り返ると、佩刀した二人の門番が彼を不審そうに見つめていた。昼間の事件も相まって部外者に対する警戒が強まっているようだ。

エルは頭をかきながら、すばやく二人の服装に視線を走らせた。眼帯をしている大柄の男は、私立ミレトス学院の天秤のエンブレムを腕に付け、錆びついた剣の柄に手をかけている。一方の背の高い男はエンブレムを身に着けておらず、腰に提げた剣も新品できれいなものだ。

エルは即座に、眼帯の男のほうが古参の戦士で話が通じやすい相手だと直感した。もう一人はさしずめ着任したばかりの若い傭兵だろうと推察された。

「夜分に申し訳ありません。急ぎ、仕事を探しているのです。どうぞこれをご覧ください」

エルは懐から求人広告と喫茶店で拝借したコーヒーカップ取り出すと、カップの紋章が見えるように眼帯の男に向かって差し出した。すると眼帯の男は眉を引き攣らせて両目を剥き、ぱっと剣の柄から手を離してひざまずいた。

「誠に申し訳ございません、どうか私どものご無礼をお許しください。ほらお主、何をぼけっと突っ立っておるのだ。早くこの御方を貴賓室にお通ししろ」

若い傭兵は上官が態度を急変させた理由がわからず戸惑っていたが、言われるままに門を開け、エルを丁重に招き入れた。眼帯の男は傭兵にそっと耳打ちした。

「至急、わしはハマル神父を呼んでくる。けして、お客様には粗相のないようにするんだぞ」

眼帯の男はエルに深く一礼して、奥の廊下に消えていった。

エルは若い傭兵の案内で貴賓室に通された。真紅のカーペットが敷き詰められた開放的なつくりの部屋で、壁には歴代の図書館長の肖像画が飾られている。黒檀の四角いテーブルは鏡のように磨き上げられ、ほこりひとつ落ちていない。

エルは傭兵の勧めに従って、ようやく座り心地のよい安楽椅子に座ることができた。昼間から動きっぱなしだった身体が今さらになって悲鳴を上げ始める。

やがて、物腰のやわらかい家政婦がノックして部屋のなかに入ってくると、紅茶のポットとコーヒーサーバー、そしてカップとソーサーを二組おき、会釈して部屋を出ていった。

エルはいわくつきの紋章が描かれたカップをコートの内側にそっとしまった。思った以上の効果があったが、実のところ門番にこれを見せて上手くいくか、彼にとっては大きな博奕だった。失敗すればその場で都市庁に通報されていたかもしれない。温かい部屋の真ん中で、今更ながらエルは悪寒に身をよじらせた

しばらくしてドアを強くノックする音が聞こえた。

「大変お待たせいたしました」

神父という存在を、エルは生まれてこのかた見たことがなかった。学校の先生みたいに勤勉で礼儀正しく、常に十字架と聖典を持ち歩いている人種とばかり思っていた。だから、図書館長のハマル神父がゆったりとした服装で登場し、滑稽に首を小刻みに振りながらエルを歓待したときには驚いた。

「あなたのために、私が品質にこだわり抜いた紅茶とコーヒーをご用意いたしました。どちらがよろしいですか? ……おっと念のため、これは私の趣味でしてね。湯沸かしからお客様に給仕するまでのすべてを自分でやらないと気がすまないんですよ。でも家政婦のベガは『あなたは足取りが覚束なくて見ちゃいられませんよ』とか言って、食器を運ばせてくれんのです」

エルが紅茶を所望すると、神父は微笑みながら節くれだった手指をくねくね動かして巧みにティーカップに紅茶を注いだ。差し出された紅茶を一くち飲んだエルは、あまりの美味しさにかえってせかえるところだった。

天井に吊るされたキャンドルの灯りが、神父の着る漆黒の衣をまだら模様に照らしている。「リヤサ」というガリシア正教会の制服らしい。首筋に銀のチェーンが控えめに垂れていて、その先端に十字架がぶら下がっていた。大きな老眼鏡の奥でリスのような小さな瞳が好奇心に満ちた光を宿し、エルが手渡した履歴書を熱心に読みこんでいる。

……距離が近いな。

神父とエルが向かい合って座る距離は、ほぼふたりの膝頭がつきそうなくらい近かった。相手との距離を保つのが身を守るための鉄則だと信じているエルにとって、この近さは異質に感じられた。

仮にも高名な聖職者であり、かつ私立ミレトス学院附属図書館の長を務める御仁が、このような不用心で大丈夫なんだろうかと、エルは勝手な心配をした。

「ふむ……。帝立セルシウス大学を首席で卒業後、一年ほど宮廷書記官として勤務。あなたのたしかな才能が認められ、帝国軍お附のエルナン・コルテス総督府へ転籍、と。……なるほど、稀に見る申し分のないご経歴ですな」

豊かな白髭を指でいじくりながらハマル神父は言った。エルは年長者に対する礼儀として自らをへりくだった。

「いいえ、それはあくまでも昔の話です。さきの大戦が終わり、総督府が解体・統合されるに及んで、ご覧のとおり今ではすっかり流浪の身となってしまいました。前の仕事で貯めたお金で何とか食いつないでいるものの、そろそろ生活が危うくなっているのが正直なところです」

肩をすくめるエルを、ハマル神父は興味深そうに眺めた。エルは二十五歳をすぎたばかりの青年だった。神父はエルの表情に潜んでいる、救いがたい悲しみのようなものを感じとった。

「せち辛い世の中ですな。あなたのような優秀な人材が、なぜそのように?」

「総督府といえば聞こえは良いですが、ここはさきの大戦のため臨時的に置かれただけの機関なのです。ひどい話ではありますが、戦いに勝利してしまえば後は用済みなわけでして。天下りで新たな職を得たのは家柄の良い者たちばかり、私のような卑賤の者は大勢あぶれてしまいました」

ハマル神父は履歴書を円卓にそっと置いて、皺だらけの両手を揉み合わせた。しばらくの間、柱時計の乾いた音だけが部屋に冷たく響いていた。

ややあって、神父は思い出したように体を起こすと、穏やかに語りだした。

「あなたの瞳は青黒く光っておられるが、こうして近くで見ると若干緑が混じっている。そう、この私の瞳と同じようにね」

神父は自分のたるんだ眼の皮膚を下に引っぱって、あかんべえをするように笑ってみせた。瞳が小さくて気づかなかったが、その瞳は宝石さながら美しく深い緑色をしていた。

「その色は、もしや……。神父さまは私と同じユーリア人、しかも純血のユーリア人なのですか?」

どくとん、どくとん。

エルの心臓が不思議なリズムで跳ね上がる。

口数の少ないエルが興奮するなど滅多になく、それは彼自身も意外だった。
エルの変化がおかしかったのか、神父は愉快そうに二、三度うなずいた。

「そのとおり。素晴らしいですよ、エルクルドさま。私はユーリアの血と大地を引き継ぐ者のひとりです。とはいっても、われわれは神代より連綿と続いている民族ですから、純血かどうかは分かりかねます。多民族との混血もだいぶ進んでおりますし、途絶えた家系だって、この夜空に浮かぶルーレタの数ほどあるでしょう」

神父の言葉に、エルは全身の肌が粟立った。なんども息を吐いて気持ちを落ち着かせようとしたが、また心臓が不規則に波打って止められなかった。ルーレタ、という唯だひとつの単語が、雷火のごとく彼の古い記憶を呼び醒ました。

ルーレタは光と共に在り、光は闇と共に在る」

エルの口から漏れた聖句を聞いて、ハマル神父はその後を引き継いだ。

闇はルーレタと共に在りて、彼らは見えざる物語の揺り籠とならん
貧しきユーリアの民たちよ
つつしんで道を究め、天の美しき声を聴け

ハマル神父は重たそうな腰をゆっくり上げると、窓際に歩いて夜空に浮かぶ星たちを眺めた。

「古株の門番からあなたのことを聞いたときは驚きました。仕事を探している青年がやってきて、しかも彼はわれわれユーリア人が大切に守ってきた聖なる紋章――《ヘデラ・ヘリックス》の描かれたカップを持っている、とね」

「驚かせてすみませんでした。少々、込み入った事情がございまして、こうする他になかったのです」

エルは内心、神父に上手く言い訳できたことをとても喜んだ。一見、失業で生活に困窮していたエルが、ユーリア人の証である紋章をたずさえ職を求めてきた……というストーリーが見事に出来上がっている。失業しているのは本当だったし、カップに描かれた《ヘデラ・ヘリックス》の紋章も本物だったが、昼間の強盗騒ぎに自分が関与したことだけは隠し通している。

「いえいえ、他人には話しにくいこともございましょう。事情はどうあれ、私どもは同胞の人間に対して深い慈しみとまごころをもって接します。悲しいことに、いまの若者はこの紋章がもつ神威を知りません。歴史も伝承も信仰も、すべて二十年に及ぶ戦争で風化してしまいました」

事実、古株の門番には紋章が効いたが、若い傭兵にはさっぱり意味が通じなかった。時の流れは、容赦なく古いものを人の記憶から押し流してしまう。

「エルクルドさま、あなたを正式な職員としてお迎えいたします。改めまして、私立ミレトス学院附属図書館へようこそ。もしかすると、あなたがここを訪れたのはルーレタのお導きかもしれません」

神父が差し出した手のひらは温もりに満ちていた。それを握りしめたときの感触は、厳しい生活を余儀なくされてきたエルにとって、随分と久しいものに思われた。
晴れてエルはこの図書館で働くことが決まり、男子寮の一室を充てがわれた。

(つづく)


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