見出し画像

7. 天に近づく秘密

その日は夕暮れと同時に激しい夕立となった。
エルは図書館の仕事を終えると休む間もなく女子寮へ走った。寮の入り口にぽつんと明かりの灯る守衛室の前で、エレナ・ローゼンハイムは仁王のような顔をして傘を差していた。

「そこの暴漢。門より先は男子禁制よ」

白と黒を基調とするボウタイブラウスにネイビーのスカート。膨らんだブロンズの髪の毛が長く肩に垂れている。エレナが濡れた草地を大股で進んでいくのを、エルは黙ってついて行った。足にバネがあるように地面を蹴る、不思議な歩き方をする少女だと思った。

「カペラ……さんは、目を覚ましたのか」

エレナは振り向かずに答える。

「ええ。状況を理解できてはなかったけど。彼女には、貧血で倒れたからあなたと部屋に運んだと説明しておいたわ」

「……悪かった」

エレナは傘を乱暴に放り投げ、篠突く雨のなかエルを睨視した。

「謝って済むと思わないで」

エレナは閉じた傘の先端をエルの鼻先に突きつけた。

「親友を気絶させた男を許すことはできない。だから……償ってもらう」

瞳を地面に伏せるエレナ。怒りを押し殺したように、エルの左胸に傘を押し当てた。どくとん、どくとん、と奇妙なリズムで心臓が波打つ。

エルは罪悪感に駆られながらも、少女が自分が事件に関与していることを誰にも通報せず、カペラにも上手く説明しておいてくれたことを有難く思った。そして、一層の罪悪感がこみ上げてくるのであった。

エレナの言う「償い」が何であれ、エルが取るべき行動はひとつである。

「許してもらえるとは思わない。だが、できるだけのことはさせてほしい」

エレナが傘をすっと下ろして視線を逸らす。冷たい雫が髪の毛やスカートの裾から零れ落ちていく。

「罰を与えたい訳じゃない。私はただ、知りたいだけ」

エレナはスカートのポケットから銀の鍵を出すと、錆びた扉のノブに挿し込んだ。軽い金属音とともに扉がひらく。

「ここは……!」

「図書館の裏口。『天狼の間』に直接通じる秘密階段がある」

人ひとりがやっと通れるほどの螺旋階段が高く伸びている。露出した黒い岩壁から外の雨が浸み出していた。

「『天狼の間』って一般生徒は立入禁止じゃなかったか」

ダビィから教わった校則を思い出してエルは言った。

「そうよ。でも私は一般生徒じゃないもの」

年齢はどう見たって十代に思えるが、彼女のもつ不思議なオーラ――天女のような神聖さと野獣のような激しさの両方――を漲らせた「格」のようなものに押されて、エルは黙って頷くしかなかった。

細長い階段を昇り切った先に、半円型の木製ドアが待っていた。エレナはそっとドアを押し開けると、エルに一瞥をくれて室内に入った。

「すごい……」

背の高い円筒形の部屋には無数の壁龕が造られていて、ぎっしりと冊子本や巻子本が並んでいた。古い紙特有の酸っぱい匂いが鼻腔を刺激する。

「この蔵書、お前が全部管理しているのか」

「管理しているのは専門職員のウィルゴーよ。私はここの蔵書を使って、ウノ市街で起きた謎を解明することを趣味にしてるの」

手品の種明かしをするように、大人びた表情で彼女は言った。

「私の名前はエレナ・ローゼンハイム。ミレトス学院の生徒をしながら、神父ハマル・ローゼンハイムの意向でこの場所を貸し与えられた者。よろしくね」

「ローゼンハイム……。つまり、お前は館長の孫ってことか」

エレナは首肯すると、唐草模様を彫った木椅子に腰かけた。

「さあ、私の素性は明かしたわ。次はあなたの番。あなたは、何者? あの奇妙な技は、何?」

たちまちエルは返答に困ってしまった。一体どこから説明すればよいのだろう。口ごもる彼にしびれを切らして、エレナは鋭く言い放った。

「質問を変える。あなたは、強盗の一味?」

エルはゆっくり首を横に振った。この期に及んで信じてもらえないかもしれないと思ったが、エレナは嘘と正直を見抜く力をもっていた。

「そうだと思っていた。あなたが人を殺すとは思えないから」

「一瞬で他人を失神させる男だぞ?」

「ふふ、自分で自分を貶められる男は、ある程度信じるようにしているの」

エレナは壁に立てられた梯子をよじ登って、一冊の書物を取り出した。経年劣化で角が擦り切れており、原型を止めるのがやっとの状態だった。エルはその書物の表紙に描かれた紋章を見て息を呑んだ。

「《ヘデラ・ヘリックス》……」

大きな八芒星と、その星の両わきを挟むかたちで描かれた蔦のモチーフ。

「あなたも同じものを持っているはずよ」

エルは重々しく頷いて、胸ポケットからコーヒーカップを取り出した。傷ひとつなく磨かれたカップには、《ヘデラ・ヘリックス》の紋章が刻まれている。

「事件の正午ごろ、喫茶店《ウラヌス》で見つけて拝借した」

「カペラのバイト先! なるほど、ううん」

世の中には予想だにしない奇縁がある。混乱する頭を必死に整理するため、エレナは艶やかなブロンズを掻き回した。

「お前は、この紋章を調べてどうしたいんだ。俺たちユーリア人にとっては最凶の遺産だぞ」

「わかってる。でも、最強の遺産でもあるわ」

『天狼の間』の外で大きな雷が一閃した。弱まっていた雨脚が再び増幅し、円筒形の部屋をガタガタと揺らす。しかしエレナは、梯子の上でも全く怯えることなく、まるで懐かしい友人と出会ったときのような穏やかな笑顔を見せた。

「ユーリア人を五百年の永きにわたり守ってきた、最強かつ最凶の呪縛。雷撃王の恐怖アストラフォビアの秘密につながる、大切な紋章だもの」

(つづく)

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?