独創メモ 2015 01 22

高齢化社会っていうことは、高齢者。人間継続して自身を生かし活かし動かし続けて六十年、七十年、八十年、九十年…存在してる人達いっぱい!ってことで、それって、簡単じゃないし凄いことだと思うんだけど。いや、凄いことなんですよね。
そういう年代の人達って、きっと、そこまでの年月をかけて、人間の悟りを知り得て、諭すことができる人達でもあるんじゃないかなと、本来は、そうした役割というか、そうした能力や知恵の備わった人達で、高齢者が沢山いるってことは、救いの手立てが沢山有るってことでもあるんじゃないかなと、思ってみた。

とくに、宗教に熱心なわけでは無いですから悟りや諭しが如何なるものか、解ってないことも多いですが、とりあえず年月をかけて生きた証でしょ、存在するってこと。いろんなことを経験して体験して人としての生き方を在り方を知ってる人達なはずですよね。だから、後世が迷ったら手を差し伸べたり救いの言葉や行為を示したり、教えてくれる人達ですよね。昔の長老とか、家老とか、そういう感じの人達がいっぱいいるってことは、とても逞しいし頼もしい社会だろうな!と想像したんですよね。

なんかね、ちょっと偏見かもしれないけど、老いて病になり呆けるような、愚痴ばっかりで意地悪しかしないような、幼稚な悪さしてとっつかまってしまうような、そんな流れじゃないんじゃないかなー、社会創造って。人々の構造って。もっと希望的な道筋で良いんじゃないかなぁって。何のための集合体であり組織体であるのか。

悟り開く御老人から諭されて導かれて、ぜんぜん神々とかじゃなくても良くて、本来は人間がありのままの姿で能力や知恵を発揮して生涯を努められれば、社会や後世もそれほど大きく道を外すこともなく人間的人道的な基盤なんかも、とっくに出来上がっていて、時を進めることでみんな豊かでいられる。みたいな20世紀から21世紀でも良かったんじゃないか、と。

とりあえず五十年も、その身体で生きてりゃ、人格形成も完成度高くて、そうそう羽目外すような人も居なくてさ、じゃあそろそろ修行なり訓練なりしてみっか!みたいな悟りや諭し方なんかを年上の人から学んだりするわけ、悟りつっても別に宗教的なことじゃなくてぜんぜん良くて、代々続く習わしみたいなもんでも良いし、身近にいなかったら習い事するみたいに教わったりして、そんな姿を子や孫らも見てたりして、それでなんていうか、体感したことないような新しい境地を知ったりして、人間的にグレードアップしていくんですよ。なんか、キラキラしてそうじゃないですか。そんな年上の方ばかりだったら世の中の悪い事も減少してゆくことでしょう。

そんな感じで簡単なことではないだろうけど、人の一生、終焉も知れないけど、五十歳までは、多少のやんちゃは良くてそれも人格形成のうちだ!みたいな感じで、相当悪さしない限りはいいの。でも、五十歳超えたら、そうそうやんちゃできませんよ!って感じのゾーンに突入して改心せざる得ないな!ってなって、世の中や人々の為になることをするの。
五十代以上の悪事は激減し、五十代以下の人にとっても模範になるから、世の中はどんどん豊かさへシフトする。そんなイメージで、歳を積み重ねてゆくこと、老いてゆく身体と付き合ってゆくこと、存在し続けることの在り方、尊重しあう人々の構造、などなど。じっくり練ってみるというのも面白いかな、と思いました。
まだ、三十代!

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