独創メモ 2015 0113

これから、先、人類は、これまでのモノゴト、過去のモノゴト、膨大な歴史をどのように処理してゆくのだろうか。どのように過去を認識して処理するべきかしらね。と、やんわり考えた。

今・未来は、有るだろう、という感覚や予測で有るがままの時間を過ごし、増えるとか減るとかはよく解らない感じ。過去は時とともに完全に消えるということもなく、人々が積むように増えていくようなイメージ。今ですら膨大であれば、これから先はより膨大に膨大になってゆく。人口が増えたことでより多くのモノゴトも増えた。グローバルな可視化により、世界中同時代で同時進行であり、どの国も同じように膨大な歴史を積み重ねて今があると感じられるようになった。昔々よりは地球体の地質形質を多くの人が認識している。神様だけを頼るような日常でもなくなっている。

そして、人ひとりの時間は限られているし、記憶されるモノゴトの容量もそれほど多く大きいわけでもないから、歴史との差がどんどん広がってゆくように思う。そのうち過去を追うことにも時間を費やせなくなるんじゃないか。費やしにくくなるというか、端的に記憶するとか、認識の仕方が変化していって、膨大に記録されたモノゴトなどから、個々の興味や好みでそれぞれのペースで追究するに限る!と共通認識や共通理解をあんまり必要としなくなるかもしれない。そうすると義務教育のような集団的認識を目的ともするような教育の場も変化せざる得ないかもしれないし、義務教育の期間も長くなくてもいいよねって減ってゆくかもしれない。同年齢とか国籍とか関係なく似たような感覚や興味のある人達で共通の知識を広めたり発展させてゆくような感じで自由な選択でいいんじゃないか?ってなるかもしれない。


膨大な歴史。これも先人によって文字や文章や絵などで文献・記録が残されてきたことや引き継がれたことに有って、もう現段階でも教科書では不足するくらいの質と量だと思う。様々なモノゴトが世界中で起きていて起きてきて記録物からだけでなく、人間の身体も記憶装置のような役割をしていて、人から人へ伝達することで知識や記憶を深めることもできる。こう覚えることが常識だ!とか、こうあるべきこと!とは必ずしも言い切れないような矛盾やズレも多くなって、いろんなことが崩壊(変化)しないと次の時代へ進みにくくもなりそうだ。


たとえ、人間の生命が150年200年と延命したとしても、追いつかないくらいのモノゴトが蓄積されてゆくが、また今後人口が減少ぎみになれば、より現在や未来への時間に集中してゆくようにも思う。もしくは、技術の進歩も活用して、他の装置によって補うことで過去歴史を認識するようにもなるのかな。同時進行にどのように何が進むか、人類が何を望むかで如何様にも時代は変化しそうだ。昔々のように変化する天気に驚き恐れおののくばかりではない。今を生きるという視点も変わってきたかもしれないし、人類の進化と共に適応する身体機能や別の方法を習得するような智と技を兼そろえて今かもしれないし、しかし、もしかしたら劣ってるかもしれない。


これから、どのように人類が歩むのか未知ではあるけど、今現在で過去を認識できている通り、同じようには歴史を捉えられなくなるかもしれない。いま、名前くらいは知っている100年200年前の音楽家や芸術家を100年後200年後も同じように認識してるとは考えにくい。だんだん歴史も削られて特段理解しなくても良い時代とか、省かれてしまう時代もあるかもしれない。


で、そうしてぐるぐる考えると、今は今生きているからこその我儘なんだけど、今時代が簡単に削られるような時代であってほしくないなと思うし、後々の人にとっても今時代が超面白くて、興味をくすぐるような飛びぬけた時代だったらいいなとも思うし、今素晴らしいモノを素晴らしいままに価値として見て頂きたいな、そんな時代に今生きていると思いたいな。

しかし、今でこそ引き継がれた歴史に翻弄され囚われた環境や社会や生活もあり、多くの人の時間が奪われているようにも感じると、後々は、過去歴史に囚われず自由に選択をして、多くの人が未来に希望を抱き今を生ききるような時代が来てもいいんじゃないか。そうも思うし、こうも思う。

今がその創造の一瞬一瞬でその積み重ねが未来だとすれば、希望を持ち、各々が思うように思えるように今を感じながら記憶し記録し残し繋ぎ、今これからを存命の方々と共に創造してゆけたらいいんじゃないかと。思ってみたりして。だいぶ広い大きなとこの展望まで行っちゃった。わけですが、こんな感じで今日のメモでございます。

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