2015*2*13 独創メモ

たまたま、その日その時その人の声が世界に届いた。
日本の人口の中の一つの声、全てを総括したわけでもなく、一人もしくはその周囲の声を束ねて一人が発した声が誰よりも誰かの声であるように世界へ届いてしまった。決して屈しない、それも、そういう声の1つであった。屈しないことが良いのか悪いのか、どちらとも判断しにくく、大人が大きな声で言うべき言葉なのかも本当のところ、わからない。印象としてあんまり良い感じがなく、ガチガチと堅く固まっていて、なんだか冷たくて怖い気もする。屈しないことに賛同すべきなのかどうか。どっちかというと、こっちのセリフだ!とも思いながら…しばらく考えていた。

きっと、生きている間に、もしかしたら生まれて間もなくの頃から、意識出来ない些細なことや、不快さを意識できる様々なことまで、ナニモノかに従うような出来事は起こっている。今までも起こってきただろうと思う。物心がつき、ナニモノか対相手が見えてきて服従すること・屈服することというのは、そういうことであると、改めて思えばそうだったかもしれない。しかし、それを改めるようなことをせずとも時が流れ、ナニモノかに屈することに慣れていたり、そのように生きることが普通であったり、どういう場面において従い従わせる側になるのかも気にせずに成長してしまっているようにも思う。実のところ、あっちにもこっちにも服従の繋がりがあり、物事が成り立っているのが今なんだろうな、と。

屈しないという発言に対して、発言者が国の長であったことにもインパクトが強く、なんだか新鮮でもあり違和感でもあり戸惑ってしまった。もしかしたら、屈しないと言える人の方が僅かなのではないか。言いたくても言えない人も多いかもしれない。言えるのは強い主張や信念があるからかもしれない。声を上げて言い切ることは素晴らしいことかもしれないが、地球上の誰もがナニモノかに従い、従わせることもしつつ、それを意識せずとも大きな声を上げずとも許容して生きている人の方が多いのではないかと。

中には昔の奴隷制や不快さを含んだ服従の関係もあり、そうした関係が卑劣さや残虐さや死や悲しみに発展することも多々起きていて、そうして長年の怨恨を残しドロドロのナニモノかを造り上げて、穏やかさを迎えられずにいるのかもしれない。しかし、一方では親しみを込めて、慕い慕われる関係を保ちつつ服従の関係を成立させるというのも歴史の中では有ったと思うし、今もそうした関係で互いに個を尊重しつつ穏やかに生きておられる人たちもいるだろう。服従することの概念を変えながら人々が生活をしてきたこと。この、振り幅の広さ。人間が進化と共に開拓した領域。

人の命の問題にまで至っているから、慎重に考える必要はあるし、ガッチガチの屈しないと選択する流れも有りで仕方がないかもしれない。けど、たまたま誰かの声が大きく世界に届いてしまっただけであって、それが現時点のベストな答えと言うわけでもないと思う。起こってしまった出来事に対して、人類の知能と言語と身体と心を用いて、様々な民族の集合する地球体で、様々な声が聞こえてくることによって、より多くの人々の望む答えに導かれることで、この時代が創造されてゆく。

屈しないことも一つの選択。そして、自身や身の周りに起きている服従について、たとえ、屈しても伸びることができる、屈しても開いて方々に散らばることができる、屈してもひっくり返ることができる、屈しても左右に揺れて転がることができる。そんな感じで、できることや変われることの可能性に希望をもち、また対相手を従わせることについても考えながら、妙案を見出そうとしてみることも同時進行にあって良いだろう、アッチにもコッチにも、そんな恐ろしいことに時間を費やさなくても、もっともっと楽しいことあるよーって、縛りを解いて教えてあげたい。膨大な情報やモノゴトを共有する世の中になった今だからこそ得られること。時間はかかるかもしれないけど、どうにかくい止めて、再び過去の惨劇を再現せずとも切り抜けられる方法を。それが21世紀まで時を進め経てきたことの成果と言いましょうか。このあとも後世に繋ぐ途中地点に存命する人達の役割!とも言っちゃったりして。今在る人達で希望することが、心に柔らかく豊かなモノであれば良いなぁと思いました。

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