独創メモ2014*12*2

初めて教育勅語を知った時に、なんて真っ当なことを掲げているのだろうと思ったんですよね。本当に、これらをベースにした大人がいて成長する子供がいたら、なんてイイ人達だらけの国になっているんだろうかと。誰にでも解ることでもあり、老若男女、皆で出来そうなことが、教育勅語の12の徳目として書かれていて、とても寛容で賢そうで逞しそうでもある、そんな人格を想像する。もしかしたら、12の徳目は少し稚拙な表現かもしれないけど、基本の人格として成長期に教えられて大人になったなら、しっかりした基盤のもと、それ以上のことへ弾みをつけて視野を広げて人間社会の可能性を追求する人も普通に居そうだし、なんかちょっとレベルアップした社会環境が見れそう。 

教育勅語は、1890年10月発布~1948年6月廃止まで約58年間、存在してました。明治天皇・作により、道徳教育が始まったんですね。後に朝鮮や台湾にも渡り様々な言語にも翻訳されたとも明記されています。廃止のキッカケとなったのは第二次世界大戦敗北によりGHQによって教育の改正が行われた為。 

教育勅語

まぁ、ここからは、ウィキペディアから参考にしたワタシなりの解釈と展望なんですが。教育勅語は発布から廃止までの58年間、道徳教育として広められ継続された中で、とても丁寧に扱われ、少々儀式的なこともあったり、天皇家の存在に対する忠義であったり、今ある学校の教育というよりは宗教的な要素も含まれていて、信仰心のように日本人の精神が培われていった【教え】だったのではないかと思う。人間的には真っ当なことでも有るし、それを全うすることでの生き方が当たり前になった時代。やがて、思想的基礎として神聖化されるという流れも、深く人々に根付き、日本人向きの思想だったのかもしれません。そして、時代の流れは戦争へとまっしぐら。お国の為と言う、当時の人々の疑いなき行動となってしまったのも、この培われた思想・精神・忠義にあったのかもしれない。後々、軍国主義を肯定するまでに発展してしまったわけですから。 第二次世界大戦の原子爆弾投下により終戦をむかえ、おそらく、特攻隊とか日本人独特の戦争観は他国にとっても脅威であり驚異だったのでしょう。普通にそれまでの戦いによる勝敗の流れとして占領して奴隷化するというだけでは、日本をモノにできないとも思ったのでしょうか。根っこの精神を作った教育勅語の存在は絶対潰さないとならなかったのかもしれません。日本には根付いた宗教観もそれほど強くなく、もしかしたら宗教的な存在でもあっただろうけど宗教色が強くなかった教育勅語は、教育の一種として見なされて、その教えを擦りかえることで成立してしまうような弱さもあったかもしれない。もし他国のように宗教として存在しているモノだったなら、宗教を重んじる人種にとって、ソレは絶対手をかけることのできない神聖なモノとしてキリスト教などと同等に扱われたかもしれない。そんな感じで、思想精神を根こそぎ壊滅され、バラバラにされたあげく、他のモノで埋め尽くされるような占領方法になったんじゃないかと。

しかし思想精神を壊されても、58年継続の中で培われたモノは数年は残っていて、人々は何らかの言動を様々な形で残してきたのではないかと思う。戦争から目的が変わり日本の回復へ、経済成長への発展へと目覚ましく導かれたのも、根付いていた精神があったからこそかもしれない。人々の思想や精神を作るモノの持つ効力は他国の宗教観を見ても、深く根付けば根付くほど、脅威で驚異だ。日本は大きな争いごとにまで発展させてしまったけれども、真っ当な人間的な要素も含まれた日本独特な教え・教育勅語の思想は、時を経て今時代に形を変えて存在しても良さそうな気はする。今度は、国のような大きな力が発信するモノでなく、個々から自然と生まれる精神や思想や心根として。しっかり保たれたモノが根本的にあってこそ、更なる人間の可能性が生み出されるように。

時を経て、もう当時の精神は完全に消滅してしまったかもしれないけど、ある意味、日本は解放されたわけで、それぞれの思想や精神を持つ自由を得た。他を受け入れ吸収して更に独特な思想や精神を創るような自由。でも、思想や精神を重んじることもなくなった現代では、生きることそのものを見失ったり迷ってしまう人も増えてしまったのではないかと思う。それぞれの自分なりのモノで良いので何かしら思想や精神を根っこに培うことで、挑戦する自信や強みにするような感じで、目的を持ち人間的にもステップアップできるように、自身の可能性を突き詰めてみるのもイイかもしれない。

そして、戦後からこれまでの歩みの中、日本人が、こんなにも様々な表現をする人種として発展進歩してきたことは、他国(アメリカ)にとっては誤算だったかもしれない、とも思う。現代の日本のスポーツ選手の独特な精神を見ていても、そう感じるところはある。来年には戦後70年となりますが、今日までの日本の表現文化は他国へ広く知れ渡るほどでもなく、どこか古いイメージが型にはまったまま時を進めてきたような気もする。他国の人が製作した日本を舞台にした映画などを見ても、同じように時を進めて今が有るようには思えないから。近年ようやく海外ツアーをするアーティストや映画祭での上映や他国からの評価を見聞きするようになって、今まで国内を飛び出して割り込んでゆけなかったことには何か阻む力が働いていたんじゃないかとも思ってしまう。インターネットの普及により制する壁もすり抜けて、多くの人の目に触れるようになり、ようやく様々に外に現れて受け入れざる得ない環境になってきたのかもしれないよ。

まぁ、同じようにどの国々にも、そうしたチャンスが巡ってきたのだろうけど。それぞれ個々の精神や思想を持つ自由さが、人間の表現を多様に生んだことに繋がったとしたら、こういう自由のあるうちに、日本なりの役割として他国に示せることが有るかもしれない。頑なに守られた思想精神が及ぼした影響、バラバラに解放された思想精神の影響、そうした歴史を経て良さも悪さも知ってる国ってあんまり無いんじゃないかな。だから、きっと、他から見ても大変興味深くおもしろい国でもあり、独自の思想精神を持つことでの豊さとして日本文化を知ってもらえたら、なんか、いいかも!

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?