独創メモ20141227

最近、お手本になる人や教えてくれるお師匠さんが居なかったら、歴史から学べ!と答えがでまして。

いつもリュックにいれて読んでいるのは、西洋音楽史の本!!を、買ってから数か月もかけて、、、まだ読みきれておりません。何度最初から戻ったことでしょうか。今度こそ理解しろ、自分!と言い聞かせて取り組んでおります。しかし、何度か繰り返して読みながらの序盤ですが、解ってきたことをポツポツ残します。

今現代、見聞きして感じている芸術にももちろん歴史があって、西洋音楽で言えば、最初は固定された一定の決まったモノで、天変地異や気候変動や宇宙や社会や人々の生活の秩序を保つ為でもあり、祈りでもあり神聖なモノとしての存在であった。個性のなにもないモノの時代から始まって、人が人の身体を通して徐々に個性表現を加え、互いに感覚や感情に響き合いして、見え方や聞こえ方や捉え方や造り方や残し方が変化して長い時間を経て今がある。

秩序を保つ為であったり神聖なものであれば、手をかけて変えてゆく必要も意味も最初はなかっただろうけれども、いつしか、法則を生み長さを変え、リズムや楽器音を乗せて、譜に残して作曲し、詩を自由につけて日常や様々な場面を歌い、個人の名前を書いて記し残し、愉しむことの表現に変えてきた。日本の歴史としては、他国からの到来によって大きく変化してきた部分も多いと思う、歴史として継承しているというよりは、渡ってきたものを受け入れて独自で解釈して日本風に表現することで今に至るのかなと、思った。

で、西洋音楽史から考えると、変える必要のないモノを変えてゆき新しい領域に入るという流れを人間が好んで人間発信でそうしてきたから、個性を加えて表現することというのは人類の進化の類であり、時代の進歩と共にある。表現して楽しむことは、人類の可能性としても追求され受け継がれてきた、人類の希望と言ってもいいのでしょうか。

そして、我が国では、今でこそ法の中に示された表現の自由として認識させられるような教えがあるものの、他国で生まれ、流れ着いてきた芸術の歴史を見れば、人類にとっては自然な時の流れであり、追求され続ける表現は法の中にあるから自由なのではなく、本来自由な性質のモノであるから表現は自由なのだ。過去から現代、後世にかけてまで更なる表現の可能性を見出してゆくことは、人類の進化としても真っ当な道筋なのでしょう。だから、個性を表し表現して愉しむということ、それらを能力として得て伝え教えることなどをして、表現の領域を広げてゆくことこそ、未来へ繋がる希望なのです。

なんてね。あぁ、でっかいこと言っちゃったね。ちょっと意味不明なとこもあるかと思いますが、丸っとやんわり受け止めて下さると嬉しいかなぁ。まだ、本を読み進まないと解らないこともあるのですが、今日のところはここまで。

何世紀に何がどうで誰によってどうこう変わってというように抜粋しながら書こうかと思ったのですが、Wikipediaとか文献から好きな国や時代を掘り下げて、個々で愉しんでみるのも面白いと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?