独創メモ2015.02.19

ストンって卵が、どこに落とされてソレが自分になるのかは、気まぐれで偶然。

生まれ出る国や、生まれ出たところで得る言語、先天性に有するモノについて、どうして?って聞いても誰もが確かな答えは言えないだろうし、生まれ持ったモノを簡単には変えられないし、何か特別な意味をソコに見出そうとしても、何もかもがその後次第、気の持ちよう!みたいな感じで、自己でどのようにか捉えるしかないよね。

その国のシステムとか情勢とか、どんな家族形態とか、どんな境遇とか、既に以前から始まってしまっているモノに混ざって動かされ、幼少期・成長期の時間を馴らされて・慣らされて、そうした時間の中で有意義さを感じたり、違和感を覚えたり、自分が産まれたことについて悶々と時間を費やすこともあるけど、どれもこれも個々の個性で、個の人格形成に必要な材料だったんだなと思ってみる。人やモノゴトも一緒くたにして材料として割り切って考えるということではなく、今まで接したものの熱量はそのままで、現時点でプラスして思いついた事。

生まれ出た後、物心を気付いた時ぐらいから自己発進はゆっくり始まり、自分の身体は始動していたんだよなーと思って。でも、既成のモノゴトなどの影響を受けてしまい、自身の存在を自身が動かすということを、あまり気にしなかった。気にしなさすぎて歳だけ積んで、ほんと、最近になって自分の身体と付き合ってゆくことの解釈を自分なりにもつようになった。

30も過ぎてもう後半で、ようやくなんですけど。自分の身体をどのように使うか、使って世の中に混ざる・交ざる、社会の一部になることを意識できたという感じです。自動運転を主動運転にする。流れに流されるままでなく、自らを動かそうと思うには随分のんびりしてしまってました。のんびりしちゃった割には急くわけでもなく、30数年付き合ってきた身体を労りつつ、どのようにか使ってあげたい、どんな感じがいいのかなぁ、もうちょっと待っててねーって、探ってる真っ最中。

で、先日、公開中の『悼む人』を鑑賞しましてね、最初は異質で異様な感じを受けましたが、主人公の行為を改めて考えてみると、生きながら、その人なりの精神を作ることは、己と向き合うことでもあり、他を感じどのようにか許容しながら、歩みを進めることかなぁと。人の精神を見知ることって、なかなか普段やらないことだし、精神を作ることは人間的にも階級高そうだけど、挑戦しがいがありそうだなぁと思った。死ぬまで人格形成は続くけれども、ソレと共に自己精神を作る鍛錬する極めるなんてことまでできたら、すげー人間になってるだろうか(笑) 。深いなぁ。高みだなぁ。すげー人間にならなくてもいいけど、自己精神が何らかの姿勢を示して、他に伝わり良い効果をもたらすことが出来たならば、ソレはソレで面白い展開だろうなぁ。

先ずは、人の精神を見知り触れて感じて、自己精神を肉付け構築って感じだろうか。まぁ、長々打ちながら気づきましたけども、感動する精神に出逢いたい。そういうことかなぁ~。

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