独創メモ2014*10*31

想像力っていろんなことに反映するんだろうなぁと思うのですが、思ったのは想像力を活かして周囲や自身に対して配慮する行為についてです。
配慮するというと、いろんな見え方捉え方であったり、先々を見据えるとか主体となるモノ以外への認識や理解など、1つのモノに限らず可能な限り視野を広く感知することでしょうか。そして感知することだけに留めず、更に言動へ発展させてモノゴトを整える、調和するような流れでしょうか。

これってマニュアル化できることでは無いだろうなと思うので、個々人の資質も混ぜ合わせながら、オリジナリティ溢れる[配慮]が生まれることでしょう。個々の想像力が為せる技というか、決して育ちや環境云々で出来不出来が決まる訳でもなく、成長しながらも得ようと思えばどのようにでも得られることでもあり、、、
あぁ、そう思ってみれば、想像力を養うことは、人生そのものや生き方や人格や人間的な要素を、補ったり正したり調和することにも活用できる。ということでしょうかね。想像力を養った人間が増えれば増えるほど社会の調和にも繋がるのではないかと。思いつきましたよ!

ただ、人間100年生きても、想像力を活かして配慮する行為をどれだけ可能にしているかと言うと、結構短期間かもしれない、子供の頃の想像力は無限のように思えても、上手に活用できず反映せずに周囲や自身への配慮にまで至らないことも多いだろうし、別のことに使うことで精いっぱいかもしれない、そのうち老いてゆく時間の経過を考えれば想像力をどんどん失ってゆくようにも思う。これも急く急く働き者の日本人だからこその日常習慣が招いている現象かもしれない、けど…。

バランス良く想像力を活かし調和している世代とか年齢層とか実は少なくて。例え、ひとまとめに集計しても数値などに現われず、個々の特性でしかなく個々人独特のモノであって、それが社会の調和に繋がるような良薬にはならないので、想像力は勝手に養えば良いし、無ければ無くても人生にまで影響するようなことは無い。と、人間の能力としてもそれほど重要視されていないのかもしれない。

でも、想像力を省いた配慮は気持ち悪いものの筈なんです、本当は。長年、配慮という行為がマニュアル化、システム化のように社会に出回っているかもしれないし、それで良い、普通だ、常識だ、とされている配慮も存在するかもしれないけど、きっと気持ち悪いモノになっていると思うんですよ。どうだろうか?。とりあえず、なんかちょっと、想像力が欠けた配慮をしてしまいそうだ!いや既にそう学んでしまってるかもしれない!とか、想像力って老いと共にどんどん失ってゆくのかもしれない!、って気づいたらちょいと怖くなったんですよ、、、気を付けなくちゃなって。

想像力を◎◎に使いなさい!って教わることもないし、いろいろ使えるんだ!ってことも、よく解ってない。怖れたり怯えたり心労するような想像じゃなくって、希望的なことを広げてゆく為に活用してみると、案外しっくりくるよ!って、導かれても良いかもなーって。個々の心身に備わった能力をどう使うかの選択、実践。

人々や社会の調和に繋がる道筋の末端の根っこに、人間の想像力が有ると想定して、想像力を養い使うのも面白いかなと思いまして。想像力の重要性を上げてみるべし。まぁ、調和を誰もが望む訳ではないかもしれないけどさ。

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