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どこからも見えない(東海道を歩く7)

 東海道歩きも静岡県に入りました。今回の旅では、小田急線で小田原まで向かうことが多くて、まずもって運賃の安いこともあるのですが、神奈川県内の東海道線では、停まる駅のほとんどが要塞のような大きな駅ビルになっていて、それを下から眺める車窓が落ち着かなくて、あまり好きになれないのです。この日は新宿から特急「ふじさん」で御殿場まで向かいます。「ふじさん」には車内販売もなく、いたって簡素なものですこし味気ない車内でした。松田からはJR御殿場線に入ります。御殿場線はかつての東海道線で、山北駅あたりの広い構内を見ると、それがかつての大幹線であったことがよくわかります。小田原まわりの車窓の特徴が、根府川に代表されるような海の車窓なのと対照的に、御殿場まわりの車窓は、山と山の谷間を抜けていくような車窓と右手に見える富士山が特徴的です。のはずですが、この日は雲だらけでどこにも富士山は見えません。「ふじさん」は御殿場までで、ここから普通列車に乗り換えます。車内は高校生や通勤の人たちでだんだんと混んでいきます。沼津に到着します。前回の歩きではさびれたシャッター商店街ばかりが目立つ市街地でしたが、この日のアーケード通りでは、そこそこ人けもあったのが好ましく感じました。


 さて、本陣跡のあたりから歩き始めます。あいにく空は灰色で雨がポツポツと降ってきます。あたりは平坦な道でとりたてて特徴のない風景です。やがて間門と呼ばれる地名のところにたどり着きました。案内で書かれた由来をながめると「マカ」と呼ぶ音がアイヌ語由来だと書かれています。東北や北海道ではあたりまえのアイヌ語由来の地名が、ここ静岡まで伸びているのかと思うと不思議な気持ちがします。住宅地を抜けて、やがて東海道線とぶつかり踏切を渡りますが、ここでも右手に見えるはずの富士山は見えません。
 まもなく、原宿にたどり着きます。あまり旧い建物は残っていないのですが、狭い道路と狭い歩道の取り合わせがいかにも宿場町という風情です。白隠和尚という禅僧が生まれた場所らしく、出生の場所とゆかりがあるとされる松蔭寺を眺めました。整えられた境内がとても静かで好ましい雰囲気です。そして、となりの公園を歩いていると、ぞろぞろと近所の人たちが向かっている場所があります。ガイドブックにも取り立てて乗っていないので、なんだろうと思いました。

 それは、原の七面さんと呼ばれる昌原寺の縁日でした。入ってみると、弁当やら野菜やら雑貨やらがお寺の境内で売られていてそこそこ安い。ご近所の人々でにぎわっています。食べ物を買ってわたしもここで休憩します。この寺は日蓮宗のお寺で、そういえば日蓮宗は商業とかかわりが深いのだっけ?と思いだしました。禅宗はおおむね武士たちに好まれましたが、より庶民的な信仰は、どちらかというと浄土宗や日蓮宗のほうでしょうか。静かで立派な境内は、多くの有力者の支援で支えられていたことを表していますが、反対に、多くの庶民が狭い境内に集まっている原の七面さんの光景は、これも多くの庶民によって信仰されていることを表しています。この場所でそんな対照的な光景が見れたのがとても面白かったのです。


 さて、原を過ぎますが、左手の富士山はやっぱり雲を被ったままです。右手には海岸沿いの松林を見ることができます。途中の大通寺という寺のあたりは浮島が原という沼地だったそうで、その湿地帯の干拓を手掛けた増田平四郎という人の銅像が立っています、彼が手掛けた干拓は津波によって失敗に終わったようで悲運の人だったようです。江戸時代での産業の発展のもとには、このような地方の有志の人間によって支えられています。そういえば、原や吉原宿のあたりの広重の画では、湿地帯のような場所が描かれていたのを思い出しました。東田子の浦駅の手前で富士市に入ります。海岸が近いので、立ち寄ってみると、防風林はあまりに風が強いせいか、陸地の方向に松の木ごと曲がっています。富士市に入ると、だんだんと景色が変わってきます。遠くには製紙工場の煙突が見えます。しばらく歩き、毘沙門天というお寺が左手に現れます。極彩色の意匠にかたどられた寺は面白そうに見えたものの、広大な敷地はがらんどうで参拝客も全くいません。手持ち無沙汰の職員が境内をうろうろしています。そそくさと境内を抜けます。それにしても、このあたり近くの景色こそ旧街道っぽい景色が続いているものの、ほんの建物ひとつを隔てた奥のほうには、大きな製紙工場とその敷地が見えるという、不思議な景色です。そんな景色を進むと、やがて東海道線の踏み切りを渡ります。まもなくJR吉原駅です。
 JR吉原駅の近くで食事にありつこうと思ったのですが、駅の近くには廃墟となった食堂しかありません。とても殺風景な場所でした。持参のガイドブックでは吉原駅入り口から見える巨大な富士山が見えるはずですが、やっぱり雲に覆われていて見えません。
殺風景なバイパス道や高架道をくぐると平家越え橋という名前の橋があります。源氏を征伐に向かったはずの平家の大軍が、この場所で聞こえたたくさんの水鳥の羽音を源氏の大軍と間違え、逃げかえってしまったという故事にちなんでいます。もちろんいまはその故事を連想できるような景色ではありません。

やがて岳南鉄道の吉原本町駅が現れて、踏切を越えれば、大きな吉原のアーケード街が現れます。吉原のアーケード街も沼津と同じように人があまり歩いていないシャッター通りのようです。わずかばかりの開いている店の中から1軒のソバ屋に入ります。そのソバ屋は、隣に旅館も併設していて、その旅館には東海道歩きの人がよく宿泊してくそうです。ソバ屋の主人も東海道歩きと気が付けばいろいろ教えてくれました。「昨日泊ったお客さんは、今日は由比まで歩いていくそうです・・」などといった他人のスケジュールと行程などを聞きながら、おのずと自分が歩いている距離をと行程を比べてしまっていたり。ソバ屋を出て、人の少ない市街地を歩きながらながめてていると、JR駅も遠く公共交通の便も悪いこの市街地に、寂れながらも飲食店といった商売がそれなりに成り立っているようで不思議に思いました。この街では近くに大工場も点在していて、職住近接が成立しているところがあるのだと思います。
 あたりは、市街地から住宅地に変わっていきます。日曜の午後ということもあって、友達どうしが自転車で通り過ぎたり、集合住宅のわきで子供が鬼ごっこをしていたりと、生活の匂いがしてくる道になりました。これまでの東海道の歩きではあまり出会わなかった景色で、それがとても好ましく思いました。身延線の高架をくぐると、しだいに目の前に富士川の対岸の集落が見えてきます。こちらの市街地が比較的に平坦なのに比べ、目の前に見える対岸では、山の斜面に集落が貼り付いていて対照的です。バイパス道や交差点が続いたあとに歩いていると、近所の自動車整備工場のおじさんに呼び止められました。どうやら、道を間違えていたらしくて、そのことを教えてくれたのでした。助かりました。往時の東海道も渡しで富士川を越えているようです。道路のわきに水神社という神社があり、その場所に渡しの碑がたっています。


 富士川を渡るのは、体感的に川幅の広い川と感じました。川の流量は少ないけれど、河原で遊んでいる人もいれば、反対側から歩いてくる同好の士と出会ったりと、歩いていて人の匂いを感じるような道にいつのまにか変わっています。この匂いは、東京から神奈川ではあまり感じなかったことです。そういえば、このあたりは電気の周波数50/60HZの東西の境目で、東西をわける境い目の場所でもあるのだな?とひとりで合点していました。中山道なら岩村田から塩名田宿の佐久平を歩いていたとき。奥州街道なら宇都宮宿から続く丘陵地から白坂宿をすぎ鬼怒川の河原に降りたとき。関東に住んでいるわたしが旧道歩きをしていると、関東(日常)から離れた異世界に来たことを感じるスポットが、かならずあるんです。どうやらそれは東海道歩きではこのあたりのようです。

 さて、富士川をわたると、東海道は対岸の集落のある丘陵をのぼっていきます。登るとそのまま間の宿になっています。そのまま歩いていると、旧宅の前で老人とばったり出会います。この旧宅は「常盤家住宅」として公開している旧家で、老人はその管理を任されているシルバー人材センターの人でした。老人の手招きにより、わたしもその住宅を見学させてもらいます。この間の宿は、当初は山のっても、その後の水害で旧い間の宿は水浸しになったので、山の斜面に移動したのだということです。ちなみに、この「常盤家」というのが、女優の常盤貴子さんの実家の本家なのだ。なんていうおまけ話も教えてくれました。
 間の宿を超えると、今日の行程では初めての丘陵地歩きになります。低い丘のあいだを抜け、新幹線や東名自動車道の高架をくぐったり跨いだりしていきます。このあたり「日本の大動脈」が、至近距離を東西に通っていく場所でもあります。地元のひとは、ただあるいているだけのわたしに、行き会ってあいさつを交わしてくれる。いつもだと行程の後半は、実は疲れてぐったりと歩くことが多いのですが、この日は違いました。歩きの後半になるほどに、地元の方の人のなつっこさや親切さが身に染みて元気になってくる良い行程でした。

 海の近くまで下りれば、ほどなく蒲原宿にたどり着きます。この日の歩きはここで終わりです。静かな宿場には、これまでと違ってわりと旧い建物が残っています。帰りの車中から外を見ると、富士山の山体がぽっかりと浮かんでいました。なんだか癪なことです。

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