見出し画像

意外に難所な峠(その2)(東海道を歩く11)

 藤枝の宿をでたところ、日差しはないのですが湿気がものすごくてうだるような朝でした。まだ目も覚めないぼーっとした状態のまま歩き始めます。藤枝の郊外は何の変哲もない住宅地ですが、まったく補修されていない道路だったり、道ばたの落書きだったりとすさんだ景色がないのは昨日と同じです。静岡の人の気質など想像してみます。たぶん穏やかだったり、実利にさといとか、がめついところは少ないのだろうなと思いました。

しばらく歩くと、神社のお堂のわきに縁日の看板が。お祭りついでに歌謡ショーまでやってくれるというというのですから、気前がよくて楽しそうなお祭りです。 さらに進んだ先には道の脇の田圃には、再現された朝鮮通信史が道を通ったことがかかれています。江戸の当時では通信史の一行は珍しさから、多くの見物客がながめたことでしょう。大名行列にしても、実際には珍しさから見物客で賑わっていたらしい。なんてことも聞いたことがあります。いまでは、政治家から新聞テレビ、庶民まで隣国を敵視していてとても愚かなことですが、一時代前までは、それなりに良好な関係が保たれていたことがわかります。次第にバイパス道が近づいて市街地に入れば、そこは島田宿です。  

大井川の渡しを前にして、島田の街はさぞ大きかったと思います。市街地の商店街はまだ開店前で、はたして営業しているのかシャッター通りなのか?はよくわからないのですが、どこまでも家と商店の連なりがのびていて、大きな市街地のようです。駅前を抜けようやく広い大通りからそれると、大井川の河原にぶつかります。この一帯はかつての渡しの諸設備が立地していた場所で遺跡と呼ばれています。いくつか建物は復元されていて、隣には島田市博物館も建っています。その建物の多くが人足の待機所として利用された施設です。近隣の村人が人足としてかり出され、その待機所は10棟くらいあり、ぱっと眺めてもかなりな規模です。なぜに大井川の渡しが、不便な江戸時代の交通事情の象徴とさせられていたのかが、なんとなく掴めました。これまで通ってきた街道や川岸の宿場をみても、これほど大規模なのは初めてなのですから。かつての河原には現代のような巨大な堤防もないから大井川が増水すればすぐ周りの集落に水があふれます。それを防ぐためにせきどめというとびらで仕切れるようになっています。島田市博物館でしばし休憩します。  

博物館を出て大井川を渡ります。大井川橋は昭和初期に作られたものらしく、片側1車線の橋はいまでは貧弱に感じるような橋です。わきに作られた歩道専用の橋もこれまた細くて貧弱な橋で、すき間から真下の地面が覗けるのが怖くて、おっかなびっくり渡ります。前方を眺めるとこれまた川幅の広さにも圧倒されます。島田市の川渡しの施設がなぜ巨大だったかというのもわかります。富士川、安倍川と川を渡ってきましたが、それらとくらべても大井川の川幅は圧倒的に広く感じます。旅人にとってこの距離は体感としてかなり遠く感じたと思います。川を渡りきれば金谷宿もすぐです。

川渡しの施設跡をすぎて宿場にさしかかろうとするあたり、踏切が前方に見えます。大井川沿いに延びている大井川鉄道の線路です。そして踏切と線路沿いには、たくさんの人が群がっています。先をのぞくと、新金谷駅が見えて、そこにはきかんしゃトーマスの形をした機関車が停車しています。まもなく発車しようとしています。せっかくなので、野次馬のようにしてこのまま通過するまで待つことにします。踏切をすぎて金谷宿を通り過ぎます。火事が多かったらしい金谷宿には旧い家はあまり残っていませんでした。JR金谷駅に向かうように道は続いていて、駅の手前で左に折れ曲がります。左手を眺めると屏風のように高い崖のような丘が続いています。ここから日坂宿までの間に坂がつづいたのですが、その時には坂の上り下りがこれほどまできついとは想像もしていませんでした。

 JR線をくぐって金谷坂がはじまります。この道には石畳が敷かれています。石畳の道がとても歩きにくいことは体験済みですが、なによりも仰ぎ見るような急な傾斜です。とても途中で休まずには登り切れなくて、途中にあるすべらず地蔵という祠あたりで休憩。息をととのえます。 石畳をすぎて坂を登り切った先には茶畑が見えてきました。茶畑のなかを進むと、諏訪野城という城跡があります。ビジターセンターという建物があり、城跡を眺めるような余裕はないのですが、休憩室をみつけそのまま休みます。向かいには製茶工場らしき建物があり、軒先には袋が並んでいて無人販売をしているのがお茶の生産地らしい光景です。こんどは菊川坂という同じような石畳の坂を下ります。その先にある菊川の集落も、お茶の生産が盛んな集落で、センターのような建物もありますが、あいにく工事中です。

いったん下ればその先はまた登り。この登りがこの日はとてもきつい道でした。 特別な悪路というわけではありません。ふつうの舗装道のまま次第に高度をましていきます。尾根道なのでりょうわきの風景を眺めると左も右も茶畑が広がっていて、ほんとうならうきうきした気分で眺めたいところですが、その時には景色を楽しむ余裕はありませんでした。目の前に一直線に延びる登り坂を登り切り、登り切ったさきで道を折れ曲がる宇。その先には新たな登り坂が広がってくる。その繰り返しです。いったいいつまでこの登りが続くのだろうかと、しんどくてうんざりとした気持ちになってきます。ようやく平らな場所にでます。

その先にはまだ上り坂があるだろうか?とおそるおそる先を歩きます。地元の農家の人たちが農機具を点検しながら談笑しています。その先に、茶屋が1件ありました。おばさんが声をかけてくれて、ありがたくそのまま休憩します。このあたりがピークらしく、もうこの先に上り坂はないとのこと。やれやれ。  冷茶をいただきながら(こういうときにいただくのは静岡では麦茶ではなく冷茶)汗だくになった身体を覚まします。おばさんと会話によれば、江戸のころからこのあたりに茶屋が数件あったらしく、この茶屋は土日のみこうやって営業しているそうです。この暑い時期に道を歩いている人は少ないらしく、この日もわたしのほかには、ひと組だけだったそうです。この先の下り坂もやはり急坂だとのこと。いただいたお茶も販売しているお茶もすべてこの近辺で生産したものだそうです。おいしかったので、同じものをお土産で買い求めます。  さて、茶屋を後にして先に進みます。こんどは、風景を眺める余裕もできました。遠くを見渡すと、これでもかとこれでもかと、山の斜面に茶畑が広がっています。この勾配も急で広大な茶畑の手入れはどうするのだろうと不思議な気がします。いつのまにか、島田市と掛川市の境を越えていたようです。あたりの農家ののぼりには「掛川」という文字が描かれています。二の曲りという急な下り坂はものすごい傾斜で、これが反対側からの上りだったら、かなりきつかっただろうなと思うくらいの高低差です。坂を降りれば、あっという間に日坂宿にたどり着きます。

 山間の日坂宿はこじんまりとした集落です。宿場であった当時でさえ、宿場の人口ランキングは下から数えた方がはやい小さな宿場だったそうです。そんな環境ですから、この宿場にはいくつか旧い旧家が残っていて、写真に撮ったのは庶民向けの旅籠。見学したのは、道のはす向かいにある田原屋という武士向けの旅籠です。ここでもボランティアの初老の男性の方が説明してくれました。昨日の岡部宿の男性の方はてきぱきと、こちらのボランティアの方は朴訥なたどたどしい説明。もちろんそのことが良い悪いとうわけでなく、楽しく説明を聞いていました、この建物のおもしろいのは、2階の部屋で、西向きにのびる窓に明かり取りがあるのですが、その一部がさまざまな模様の形に切り抜かれ、西日があたるとその模様の形が反対側の壁に映るのです。これは見たことのないしかけでおもしろかったのです。日坂の集落には食堂はなく途中で見つけたパン屋で買いもとめたパンをかじります。

 日坂の宿をこえると、もう坂はなくて平坦な道がつづきます。掛川までの道も淡々としたものです。途中の道は次第に車の量も増え、良い景色が望めるわけでもありません。近くには里山が点々と見えています。掛川の市街地に近づくと、しだいにコンビニや郊外店のたぐいが増えています。やがて掛川宿に到着です。この掛川宿では七曲がりと呼ばれるように、東海道は鍵状にまがっています。これらの道は、いまでは市街地に埋もれていて、ただの生活道路と化しています。藤枝と同じようにこの掛川の町もそれほど大きくない規模の城下町です。市街地の中にお城とお堀があるようです。目立つ大手門のあたりでは、近所の子供が遊んでいます。  

今日の歩きはここまで。掛川も藤枝と似たような小さな城下町です。静岡をのぞけば藤枝も島田も掛川も小さくて似たような規模の町が続いています。きつい峠を越えて駿河の国から遠州の国に入りましたが、違いはよくわかりません。遠州の歩きはこれからです。きっと次の歩きで体感できることでしょう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?