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「湘南」とくくられた地域1(東海道を歩く4)

 戸塚宿まで到着しました。思ったよりも神奈川は平らな地形は少なくて、丘陵地を上ったり下ったりの道が多かったです。歩道橋だらけの戸塚駅を降りて、前回の歩きでは暗くてわからなかった本陣跡を、やっと見つけることができました。東海道とはいえ、いまは立派なバイパス道と化している国道沿いを歩きます。宿場を外れるころには上り坂が始まります。大坂という坂を登りきり、かなり高度を上げたので、ほんとうなら眺めの良い場所のはずなのですが、マンションが建つ丘の上では視界はさえぎられています。遠くに富士山も見えるのですが、上手く写真のワクには収まりませんでした。年の暮れも近いこの日は、箱根駅伝を追体験しようとする市民ランナーたちが横を通り過ぎていきます。

 バイパス道を外れて、並木道の坂を下りきると遊行寺に到着します。一遍が開いたとされるこの寺は「一遍上人聖絵」を見るために、何回もおとづれたことがある場所です。その時にながめた「一遍上人聖絵」は、本当に素晴らしいもので、高貴な姿の人もみすぼらしい姿の人も平等に描かれ、平等に踊っていること、武士の妻が周囲の反対を押し切り自分の意思で出家していく姿が描かれていて、とても感銘を受けたのでした。この寺の境内は、そんな多彩な人を受け止めるような、間口のひろい雰囲気がある、好ましい場所です。その遊行寺を出たあたりから藤沢宿が始まります。ここでも、そんなに旧い建物などは立っていませんし、いたって静かな商店街なのですが、ほどほど狭くてゆるくカーブした通りと、その通りに面した建物のつらなり方が、宿場町の名残を残しているように思います。なにより、にぎわう藤沢駅あたりの雰囲気とはまったく違います。街道のわきには、義経の首塚という場所が残っています。さすが、鎌倉に近いだけあって、ここでも源氏にまつわる史跡が多いように思います。
 藤沢本町では、小田急の線路を踏切ではなくまたいでいます。ここで昼飯とします。はいった中華食堂は、地元の人がよくおとずれるような食堂のようで、店員と客が世間話をしています。この食堂を過ぎたあたりの景色は、右手には小さな山が続いていて、左手には住宅地が続いています。寺社も旧跡も少なくてどこかとりとめのない景色です。

ようやく道路沿いに、おしゃれ地蔵という名前の小さな地蔵をみつけました。地蔵の顔の口のあたりは赤い紅で赤くなっています。女性の願いをかなえるというお地蔵だそうです。そのほかは、やっぱりとりとめのない住宅地が、茅ヶ崎の街まで続いています。湘南=茅ケ崎というイメージから、茅ケ崎が海の街という印象を持つかもしれませんが、東海道を歩く限りでは全くそんな気配はありません。このあたり起伏の多い地形のせいか、旧道が通るあたりの海抜は10mを超えています。ところが、たとえば日光街道の杉戸や幸手宿では、関東内陸にもかかわらず海抜はせいぜい3m程度で、ここよりも低いのです。まったく旧道を歩いている限りでは海を感じることはありませんでした。東海道を歩いている限り、茅ケ崎という街には、どうもはっきりとした輪郭を感じることができないでいました。

 ぼんやりとした住宅地は、ずっと相模川を渡るところまで続いています。川をわたる橋からは、おおきく富士山も見えるようになってきます。けれども、この場所の主役はどちらかというと大山のほうです。上野の国なら上毛三山と利根川、下野の国なら日光連山や那須岳と鬼怒川といったように、それぞれの旧国で山と対になる川があるように思いますが、それは相模の国では、相模川と大山といったところでしょう。川を渡ったところの河原には、渡しの跡の看板があるとガイドブックには書かれていたのですが、さっぱり見つかりませんでした。探しているうちに道も消えていて、先に進むこともできません。やっと河原の草むらをぬけて道路に戻ります。

 茅ケ崎とはことなり、平塚の市街地はまっ平らな場所です。住宅こそ連なっているのですが、とても静かな町でそれほど活気があるようには見えませんでした。駅前通りと交差するように東海道は街を縦断しています。藤沢や茅ケ崎と違い、平塚の商店街には旧い建物が多く残っています。八王子や小山、熊谷といった、かつての宿場町と似ています。また、この町には、公共の建物もありますが、この公共の建物もかなり旧い建物のようです。
 今回の歩きは平塚までです。これまで歩いた中山道、甲州道、日光道、奥州道では、それぞれの宿場町が、それぞれ街道で独特の雰囲気をもっていたと思います。ただし、この東海道では、まだそういった独特の雰囲気というものはまだ感じられませんしたし、とりわけ湘南とよばれるこの地域は、どこかつるんとした雰囲気を感じます。考えてみれば、湘南という地域はどこかイメージ先行で、サザンオールスターズといった歌詞から印象付けられる名前です。はたして実際にここに暮らす人々の生活圏と連動しているだろうか?と考えると、このあたりを「湘南」と位置付けたとき、むしろ藤沢茅ケ崎平塚といった、それぞれの地域や歴史と由来を切断してしまっているのではないでしょうか?
 東海道といいながら、まだ視界の中に海が飛び込んでくることがありません。次の小田原までの行程で、こんどこそ出会えるのではないかと期待しながらの帰路でした。

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