「基礎疾患ない10歳未満女児死亡」ニュースに見る”報道の文脈”の危うさについて

 先週金曜(8月26日)、MXテレビは午後8時のトップニュースで「速報 コロナ感染し容体急変 基礎疾患ない10歳未満女児が死亡」と報じた。その後、このニュース番組はコロナの感染状況と全数把握に関する話題へと移っていった。
 MXテレビは東京のローカル局である。当然、小池知事の動向をメインに伝えた。小池知事は「都は一人一人患者を大事にする観点から当面、発生届は現在の運用を続ける」と発言。国の全数把握見直しの方針に対して「現場を混乱させないで」と強く釘を刺した。

 さて、この一連のニュース報道を見た視聴者はどう感じただろうか。

 女児死亡の速報⇒本日のコロナ感染状況⇒小池知事の発言⇒
 小池知事が主張するように都民の命を守るためには全数把握が不可欠なのではないか。なぜなら全数把握を止めてしまうと、基礎疾患のない女児のように急死してしまうケースが出てきてしまう。それは大変だ。やっぱり国の見直し方針はおかしい。小池知事のほうが正しいのだ。。。

 多くの視聴者がこんな考えに行き着いたとしても不思議ではない。なぜなら、番組制作者はそれを狙っていると考えられるからである。女児死亡のニュースは別の地上波のニュース番組やワイドショーでも取り上げられていたが、いずれも全数把握見直しの枠の中でこの件が語られていた。つまり、「報道の文脈」が報道する側にはじめからあって、使えるパーツとして女児死亡のニュースをはめ込んでいるのである。

 ところがここに大きな落とし穴がある。
 もし仮に女児死亡のニュースが8月上旬、まだ国が見直しを言い出す前、全国知事会も国に要望を出す前、東京の感染者数が2万、3万を記録していた時期だったとしたら。。。「報道の文脈」は全く違ったモノになっていたはずである。

 都内で初、基礎疾のない女児死亡⇒医療現場のひっ迫や連絡体制の不備に起因⇒小池知事は幼い命も救えないのか、何をやっているのだ!

 冒頭の矢印とは180度真逆の方向に視聴者の感情は流れていく。「報道のの文脈」次第で、視聴者はまったく異なった結論にたどり着いてしまう。そして、どちらの場合も、報道に接して導き出した自分の判断は正しいと信じて疑わない。

 冷静に考えれば、そもそも冒頭の矢印が論理矛盾を来していることがわかる。女児が死亡したのは全数把握がなされていなかったからではない。全数把握を行っていた最中に起こった出来事である。全数把握をやっていても防げなかったケースである。これを全数把握の善し悪しに結びつけるほうがおかしい。女児死亡を繰り返さないために質すべきなのは、全数把握うんぬんではなく、東京都のコロナ対策そのものなのではないか。しかし、世の中はそう捉えようとしない。「報道の文脈」に誘導されて、全数把握の正当性を裏付ける証拠のように持ち上げてしまう。結果、あたかも国が悪者で小池知事が正義の味方のように単純化されてしまう。そのほうが明快でわかりやすいのかもしれないが、真実からはほど遠いと言わざるを得ない。

 たしかに、国のお粗末さは非難されてしかるべきだ。地方と十分にすり合わせをしないままに拙速に方針を出した罪は重い。だが、だからといって全数把握の見直しそのものを否定していいのか。ニュースには必ず発信する側が仕組んだ「報道の文脈」が隠されている。そこまで読み込む力を視聴者が身に付ける必要があることを、今回のケースは教えてくれていると思う。

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