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ゆらめきかた

しばらく気持ちが萎んでしまい、生きることだけで精一杯だったけれど、なんだかんだで空気が入ってきたので久しぶりに日記でも書きます。なんの変哲もない今日の日記。

私にはもう何もかもダメだと思う気持ちになると漫画を一気読みする癖があって、今回のターゲットは昔大流行したアメフト漫画「アイシールド21」だった。スポーツ全般、ルールがわかるものがいまだに一つもないというくらいリアルには通らないで生きてきたけれど、少し前に同じ原作者の「Dr.STONE」を読んでたいへん感動したので、この人のつくるお話、この人の描くキャラクターがもっともっとみたい!と思って手を出した。全37巻。ルールもわからんスポーツを追い続けるには長すぎる気もするけれど、最後まで夢中で読んでしまった。世間的イメージでの私はきっともっとヴィレヴァンくさい漫画を読んでいるほうがそれっぽいのだろうし、実際ヴィレヴァンっぽい漫画も好きでよく読むけれど、(褒め言葉としてのヴィレヴァンです、もちろんね…)多分世の中のフワッとした、サブカルっぽい女、という印象よりもはるかにただ心のきれいな人や生き様のかっこいい人たちが、頑張って、協力して、輝いて生きている、という姿を見ることが素直に好きな人間なので、少年漫画が結局いつも一番好きだ。特にこの稲垣理一郎先生が原作をした両作はもう凄まじく、とにかく生き様のかっこいい男たちが山ほど出てくる。アイシールド21も、Dr.STONEも、それぞれフィジカルとしては敵に劣る少年が、頭脳と謀略を駆使して、時には悪魔のような顔で笑いながら、戦況をひっくり返していく。仲間たちにも、敵にも、決して完全無欠のものはいなく、それぞれの個性を活かしあいながら、ダメなところを補い合いながら、たった一人の無敵の人ではなく、様々なカードを持っている最強の集団へと仕上がっていく。知識の豊富な少年、ひらめきが凄まじい少年、狡い手を使うならば誰にも負けない少年、誰かを守ろうとするときにだけ強くなれる少年、人の気持ちを鼓舞するのが上手い少年、ただ地道に作業することが得意な少年、なんというか、ちょっとみたことのないレベルの器用さで、様々な能力を持つ人たちを適材適所で上手に活躍させ続け、星座が繋がって光るように鮮やかに、目の前の壁を壊していくのだった。これに近い気持ちで好きな漫画に同じくジャンプで連載していた「暗殺教室」があるのだけれど、そこでもやっぱり完璧じゃない人たちが、自分の良さと他人の良さをわかり合うことで力を発揮していく。そういう少年漫画がきっとすごく好きで、そして、ここまで細やかに誰も彼も、その彼らしさをねじ曲げることなく活躍させてあげられるストーリーテラーというのは、ものすごく頭がいいのだ。物語の隅々まで見て、「いない」ことになっている人がいないかと、ちゃんと探しているような、そういう誠実さがある。「Dr.STONE」のコミックス内の質問コーナーで、漫画内で特に頭がいいと言われている五人のキャラクターのうちで最も頭がいいのは誰ですか?という質問に対し作者は、「タイプが違うだけだ」と答えて、それぞれのキャラクターの特化したところを並べていた。発想力、決断力、思考力、策謀力、洞察力…なんていい漫画、なんていい信念のもとに作られているんだろう、と思ってひっくり返った。頭の良さを点数で決められ、真面目さを遅刻の回数で決められ、性格の良さを明るさや態度で決められる少年時代に、こんな漫画があってくれたらどんなに良かっただろうと思った。今少年期を生きている子供はこれが少年時代に読めるのか、それはなんて素晴らしいことなのだろう。また、「アイシールド21」でチームの司令官を務める策謀家のヒル魔というキャラクターが素晴らしかった。恵まれなかった体格や身体能力を圧倒的な研究とアイデアと策略でカバーし、どんな戦況でも相手に感情を読まれないように表情や態度を自在に操る。「もっと身体能力に恵まれてたら…」と言われた時には、
「ないもんねだりしてるほどヒマじゃねえ  あるもんで最強の戦い方を探ってくんだよ 一生な」
と返す。この言葉、それこそ一生大事に持っていなきゃ、と思った。私はあまりに弱く、何かできないことや届かないものがあった時に、生まれ持った何かが足りないせいなのだとすぐに落ち込んでしまうから。
足りる、って、よく考えたら何なのだろう。どこまで行っても完璧なんかない。無敵の人など、いない。いるように見えたなら、それはその人本人が、そう見えるように振る舞っているだけだ。

今日ミスiD審査員長の小林さんと久し振りに会って話していて、ちょうどそんな話になった。コロナ禍はお金持ちにも有名人にもいい奴にも悪い奴にも平等に混乱をもたらし、そのことによって様々なことが浮き彫りになった。そんな中で始まったミスiDにはきっと、この行動したいのにできない、という状況の中で燻っている何かをぶつけるように、切迫した思いを懸けるように、強い思いがあって応募した子もいるだろう。中にはすごく有名な人もいるし、今初めて出会う人もたくさんいる。それぞれ何か多かれ少なかれ、思うところがあって行動をしたのだと思う。不思議でいて唯一の確かなことは、どんなに有名な人でも、どんなにお金持ちな人でも、自分自身の人生を愛しているかどうか、あるいは現状に満足して満たされているか、すなわち「幸福であるかどうか」というのは、決して保証されないということだ。どうしても世間的な見え方としては、お金や知名度がある人が何かをさらに求めることは、贅沢なことだとして批判されやすい。だけれど、本当はその人が幸福であるか、満たされているかどうかというのは、結局どんな外側の状況からもジャッジすることはできない。足りる、って、何がどのくらい足りたら足りていることになるのだろう。お金はいくら貯金していたら足りていることになる?顔はどのくらい?何人にきれいだと言われたら足りていることになる?友達は何人?フォロワー数は?1週間のうち充実している日は何日くらいあれば私は幸福な人間と言えるのだろう?こういうことをいくらでも考えて、考えたことの価値は、こういうことをいくら考えても、直接の幸福については意図的に関与することができない、ということに気がついたことの一点だった。愛や自由が幸福を運んでくるのなら、何かが足りないと嘆いていることはきっとそれに背を向ける行為だ。大体、一体何から逆算して足りないと感じているんだろう。それは本当にあなたのモノサシで測ったものだったの?そういう疑問は湧いても、今はそれよりも、何か焦燥感を抱く全ての人を、隣人のように愛おしく思う。私にも、自分の欠けているところの形ばかり確かめてしまう夜があります。そんな夜に月がほとんど正円を描いていたりすると、マラソン大会で咳をしているうちに友達に追いていかれた時のような、さみしい心地がします。だけれど、そうか、だから、きっと誰かの命が燃えているところをちゃんと見たいと願うのは、誰かの火を見て、私も燃えているのだということを思い出したいからなのかもしれないな。誰とも戦う気も勝つ気もないから、人気を競い合うような今の仕事にはやっぱり私は向いていないのだとよくわかるのだけれど、今は、どうかこんなに流れの早い世界に、飛び込んだ瞬間に身動きの取れない理由が山ほど付き纏ってしまったことで、どんなにか焦ってしまう人がいたとしても、心の奥で味方をしていたい、そういうことだった。君が求めている何かが、本当に手に入るものなのかどうかなんてわからないし、どうでもいい。手を伸ばしていることが眩しいから、その手の角度が報われるとしても、全く無駄になるとしても、どちらにしても最後には君が君を愛せるように、と祈ってしまう。今、焦燥の中、レインブーツもなくスニーカーで泥水の上に立って歩く全ての人に、身体についた泥さえも味方してくれますように。

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