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「耐え抜く」以外のボタンを押せない日々で

  時間通りに家を出ることもできない私は、それでも再度の緊急事態宣言を受けて自分が一体どう振る舞うべきなのか、頭が悪いなりに考えていた。拙い想像力でまず心配になったのは近所の飲食店。カフェやレストラン、前回の宣言の間に消耗し切って店をたたんでしまったお店がいくつもあった。人に好きになって、繰り返し訪れてもらってやっとなんとか続いていく、というのは私のしている仕事も少し似たようなところがあって、完全に人が途切れることはそうそうなくとも、案外、ギリギリのバランスで成り立っているのだ。何事も。とりあえず近所の個人経営のレストランでお昼を食べようと準備をして向かうと、30分前にラストオーダーが終わっていたのが一昨日。そして今日こそと思い少し早く起きて準備して向かったけれどやっぱりラストオーダー10分後に到着したのが昨日。三度目の正直で今日こそ間に合って、ずっと食べたかったガレットを食べる。時間に余裕を持って1日を始めることがそうそうない私にとって、ほんの少し時間を持て余すだけでも本当に贅沢のように感じる。それから薬局で持ち歩き用の除菌ジェルを買い足して、映画館に向かった。

 以前までは、コロナ禍でのこういったちょっとした外出も誰かから文句をつけられてしまうのではないかと思って、どこにも書けなかった。人の価値観や、何に影響されて何を正義としているのか、そう言った極端さはそれぞれで、一体どこをどう気をつけたらいいのかもわからないまま。基準だって日々変わっていく。それでも私は、もういい加減、シンプルに自分が正しいと考える姿でいようと思った。感染拡大をできる限り抑えるためにできる努力はしたいけれど、そのために飲食店や映画館の客足が完全に途絶えていくことを見過ごすことはできない。どんなに貧しくても耐え抜きなさい、なんて、実際にその立場にいないからこそ思えることだと思う。私の育った家は父しか働き手がいなく、自営業で日銭を稼ぐ暮らしだったため少しでも売り上げが不調な日が続いたり父自身が体調を崩したりするとすぐに誰かからお金を借りなくては生活が続けられない状況に陥った。当たり前の毎日が、普通に続いていくとは限らないことなんてずっと知っている。それでも、そんな大きな不安の闇に飲まれないようみんな日々働いてきたはずなのだ。今の私だって、いつどんなことがあって働けなくなるものかわかったものじゃない。いい加減この先のことを考えないといけないな、と思いながらも、いまいちどの方角にだって舵を切れずにいる、そんな日々での緊急事態宣言だ。自分にできることを考えながら、目の前でできるちょっとした消費をやめないままで、なるべく多くの人が持ち堪えられるように、祈りながら生きる。

 見に行った映画は黒沢清監督の「スパイの妻」だった。第二次大戦の最中貿易商を営みながら裕福に暮らしている優作と聡子が、たまたま満洲で自軍の闇を目にしてしまったことをきっかけに人生を翻弄されていく、サスペンスのようなラブロマンスのような戦争映画、と呼んでいいのかわからないけれど、それら全ての要素が盛り込まれた作品だった。
 主人公夫婦役の蒼井優さんと高橋一生さんの芝居力は言うまでもなく、お二人のお芝居を幾度も目にしたことがあるにもかかわらず新鮮な驚きがあった。それはお二人の非常に細やかなテクニックの連鎖の為すものだということも感じた。現代口語とはまた一味違う、独特の言い回しや書き言葉的表現の多く含まれた台詞。「あの…」とか「えっと…」と含みを持たせることもなく、畳み掛けるようにピシャリと放たれていく力強い台詞の一つ一つを、まるで本当にその時代を生きた人かのように、当たり前の顔をして言っていく。言葉の端々に、彼らがどういう人間であるか、何に苦しみ何に喜んでいるのかが宿っている。そして、それでもなお全ては晒してしまわないような観客との距離感のちょうど良さに、いかに彼らが脚本の中でリアルに神秘的な存在であったのか、ということが現れているようだった。

 これは戦争映画で、ストーリーの核心に位置する出来事も、731部隊の細菌兵器の開発と人体実験の記録を偶然主人公サイドが目にしてしまったことから始まる。売国奴を出さないための厳しい取り締まり、刑罰、拷問、そして徐々に捻れていく裕福だった暮らし。戦争映画で人の感情を揺さぶるのはある意味簡単だ。生の実感も死の恐怖も感じにくい世界で、私たちは感覚を殺されながら生きている。激しい描写で驚かせれば人の心なんてすぐに動く。だけれどこの映画は、どこか不思議と、ずっとさっぱりとした感触だった。それはいい意味で現代の感覚に近いと感じる独特のテンポ感や、そこはかとない不穏さを醸し出しながらも決して不用意に感情を揺り動かそうとはしてこない品のいい劇伴(ペトロールズ長岡亮介さんによるもの)などおそらく様々なポジションの人々が意図してやったものなのかもしれないけれど、最もそのさっぱりとした味わいを感じたのは、蒼井優さん演じる聡子の芝居自体だった。夫が国の秘密を密告しようとしているという志を聞き、それに納得した聡子は凛々しい表情で愛を語らいながらも、どこか、そこはかとなく自己陶酔しているようにも見える。陽光に照らされながら運ばれていくバス車内で、尾行を怖れながら質屋へ向かう道で、聡子はどこか、大きなラブロマンスを演じる少女役のように、爽やかな興奮を醸し出す。まるで、自分の頭で考えることなく鳥籠の中の綺麗な小鳥のように生きてきた1人の人間が、自分の意志を持ち、夫との愛を貫き、障害にまさに立ち向かっている、そういう様に酔いしれているようにも見えるのだった。
 きっと、物語は真実の愛の話とも取れるし、戦争の卑劣さを告発する物語とも取れるし、優れた歴史ドラマとも取れるだろう。だけれど、私には、自分の人生を歩くことを知って一瞬きらめく、1人の女性の話に見えた。そうか人は、「私はこういう風に生きる!」と思うとき、あんな風に子供みたいにきらりと光ることがあるんだな。その背景には女性が自分の意思で人生を歩むことがそもそも不可能であった時代があり、この映画で見た煌めきは決して手放しで喜べることだとは言い切れないけれど、それでも、この不自由の中の希望には、今日の日の世界と繋がる何かがあるような気がした。

 昨日思っていた「普通」が徐々にずれていき、「異常」に変わっていくような感覚は、2020年からずっと私たちが身近に感じているものでもあると思う。感染症の流行は武器のない戦争だ、という人もいるように、実際に、私たち民衆はほとんど「耐え抜く」以外のボタンを押すことはできない状態のまま今日まで生きている。私たちもまた、十分に時代に翻弄されている。その中で選ぶ一つひとつのことさえも、きっととても大きな意味では時代に左右されているだろう。
 時代の掲げる「普通」は時として強烈な相互監視を生み、また理不尽に対して原因を求めすぎる性質のせいで、感染症の陽性者は言われない差別を受ける事態にまで発展している。陽性者はきっと遊び歩いていたんだ、何かよくない行動をしていたに違いない、という根拠のない誹謗中傷までまかり通っている現状に、SNSをたまにしか覗かない私でさえ十分に痛みを覚えている。誰もが誰かを告発し合うような社会では、足の引っ張り合いしか起こらない。当たり前に、庇いあえないものだろうか。こんな事態でも、なお金銭的にも精神的にも「耐え抜く」以外の選択肢がない世界で、私たちはどうやって自分の人生を生きられるだろうか?いい加減、気の持ちようで人生を明るく捉え直すような精神論にもうんざりして、いつか解ける魔法ではない本当の光を探したいと願うようになる。どんな話題も少しだけポジティヴに終われるように、という自己ルールもそろそろ撤廃して、今日の思いをここに置いておくことにする。


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