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9/18。Star overhead

あの日感じたときめきの正体は一体なんだったんだろう。そう分析し始めたら大人になったということなのかな。それでも私はそもそも、自分が今見たものの綺麗さを、胸の高鳴りを、感じた今その瞬間にちゃんと、どういうものでできているのか分析して解ろうとせずにはいられない人間だったと思う。自分のことを、物語の主人公だと信じて疑わない人は輝いているけれど、あれはある意味ずるい輝きで、いつか解ける魔法のようなものだから、そんなクスリで心拍数あげるよりもっと、今目の前で君が笑ってくれたことにときめいていたい。都会の真ん中から見上げた雲がちゃんと動いていたことに驚いていたい。

私は高頻度で自分のことをものすごく嫌いになるので、私が私を嫌いな日にも私を好きでいてくれる誰かがいることに人生をひっくり返され続けている。人生がひっくり返ってしまうのが恋、そのひっくり返った裏側をずっとずっと歩いていくことが愛。それなら私はずっとすごくたくさんのものに恋をしてきたし、今歩いているこの道も愛だ。ピロウズの新曲は青春時代を懐かしむような歌詞で、ありきたりだと思いながらも繰り返し聴く。ばたばたした日々を超えて真っ先に見に行ったフリクリの新作映画がなんというか不思議なくらい心を打たなくて、少し落ち込んだけれど、大丈夫。そういう時、好きだったものを全部塗りつぶさないように冷静でいられるのが私だし、あの頃OVAで見た「FLCL」は確かに絶妙に意地悪な物語と最高のタイミングで流れる音楽で、憂鬱な世界を踏み潰していった。それは確かなことだった。

何を見ても妙に感動してしまえる季節というものが人生にはあるからこそ、こうして振り返った時に自分のときめきを疑うこともあるけれど、大人になっても何回振り返ってもどんな場所から見返しても絶対に光っているものがあったっていい。思春期に聴いていた音楽なんて、今もう一度聴いたなら何が良かったのか全然わかんないものだってたくさんある。だけど、あの言葉の魔法が解けたって、勘違いが解けたって、こんなの私にも言えちゃいそうな言葉だって、どこかから盗んできたようなメロディーだって、思い出とごちゃ混ぜになってもうわかんない。好き、でいい。と思う。好きだったはずのいろんなもの、もう考えるのやめて好きだって言えちゃうようなだらしない世界で、君と重なって色と思い出が厚くなった秘密の空間を愛しながら、生きていこうと思う。

「フリクリ オルタナ」では、登場人物たちのほとんどが自分は物語の主人公だって疑わないような表情と振る舞いで生きていた。それがなんだかいらいらした。ただ一人そうじゃない生き方をしている子が出てきて、その子だけを私は好きだと思えたのだけれど、物語の視点は一貫して「自分のことを根拠もなく主人公だと思い込んでいる、平凡な人々」側についていたので、最後まで寂しさを感じながら2時間半、スクリーンを見ていた。何をフリクリというアニメだと捉えているかは人によって違うのだろうし、そもそもこれは公式の続編と銘打ってはいても監督も脚本も違っているわけで、まあ今回の製作陣にとってはこれがフリクリだったんだろうな、と納得することでしか対処できないのだけれど、私も私で認識をOVAの頃にちゃんと戻して、また、汚れないままで宝箱にしまっておこうと思うのだ。

「平凡」ってなにかしら。平凡なんて本当にあるのかしら。平凡な人々ってなんのことを指すのだろう?いつまでもわからない。わからないふりをしている私が一番平凡かもしれない。対義語は「特別」?それなら特別ってなんだろう。私は特別にも平凡にもなりたくない。私は私の人生を生きているだけで、それは私にとってしか意味のないものだ。ここにある惨めさも美しさも、くだらなさもかっこ悪さも、可愛さもダサさも、深刻さも軽薄さも、全部私にとってしか意味のないものだ。だから、「どこにでもいる平凡な人」みたいな大雑把な性格設定をされたキャラクターを見るとなんだか落ち込んでしまうのだ。そんな人いないから。フィクションに刃向かうなって言われりゃ何も言えないけれど、架空の平凡で括られたキャラクターたちにも、それに共感すると思われている人々にも、そこから弾かれていらいらしながら画面を見ている自分にも、なんだか落ち込んでしまうのだ。

気を取り直して、劇中ではなんとも悪い意味の微妙なタイミングで遠慮がちにかかっていたピロウズの名曲たちを改めて聴き返しながら街を行く。思春期の私にとって、いつも励ましの言葉をくれたのがこういう音楽だった。言葉に尽くしがたいけれど、自分が世間とずれていることに自覚的で、それでもそのままでいいと何度も何度も自己肯定を繰り返し、この生き方で生まれていく歪みや悲しみを全部引き受けながら生きていく、そういう精神世界が広がっているように聴こえていたのだった。大ヒットを飛ばしたわけではない、王道の売れ方をしている訳でもない、聞き分けのいい大人にもなれない、そういうコンプレックスをそのまま無くさないで、ちゃんと持っているバンドだった。私も同じようなひねくれ方をしていて、今もそれが続いているので、いたく共感した。

凡庸なものには凡庸なもの同士の共感を、特別なものには特別なもの同士の共感を、それぞれ持って生きてしまっているのだろうか。私は何か飛び抜けたものを持っているわけではないし、その上AV業界というルックスがものをいう世界にわざわざ来てしまったわけだから、良く言うと親しみやすいとか、身の回りに居そうとか、凡庸とか、嫌な感じの言葉だとちょうどいいブス、といったふうに表現されることがある。そして、暗黙の了解のように、態度も服装も髪型も身につけているものも、そういうイメージに即したものであることを求められている、と感じる。理想なんて押し付けるもので構わないし、身近に感じてもらえることは嬉しいことこの上ないのだけれど、おまえは特別じゃないんだよ、その程度がいいんだよ、と悪い方に読み取ってしまう癖がたまに出ると、結構落ち込んだりもする。「フリクリ オルタナ」を見てもやもやしたのは、凡庸な人が凡庸であることを結局強いられ、凡庸な同士で馴れ合ってまるでそれが大人になることの正解であるかのようにずぶずぶと着地して終わってしまったからなのだった。そういう物語の中に、ピロウズの音楽は似合わせてはいけないのだ。ピロウズの音楽は、凡庸であることを周りに期待されてしまっている、それに自覚的になってしまっている、だけれど誰よりも何よりも世界で一番特別に光れる瞬間を待っている音楽だと私は思っている。そして、その音楽たちは私の、歪であることの悲しみにきらめいていた。凡庸であれと望まれることの悔しさに同じ温度の雨を降らせてくれていた。私の中を通って、音楽が光ってくれていた。そういう体験が、凡庸であるとか、特別であるとか、そんなものは他人からの目線があって初めて生まれるものだから、私自身の命にはぜんぜん本当は関係できないものなのだと解らせてくれた。私は私で光ればいい。だれが見た目や実績から私の程度を測ろうと、そんなものはどうだっていいと言える強さだけが必要だったのだと思う。

そんなことをごちゃごちゃ考えながら風邪をひいていた。昔ほど、1日でも黙っていたらみんなに忘れられちゃう、他の山ほどいる素敵な女の子たちのところへ行ってしまう、みたいな焦りが湧いてこない。承認欲求はもともと薄い方だとは思っていたけれど、近頃は本当に探しても見つからなくてちょっと困っているくらい。私を見て!という焦燥で輝く女の子たちとは、私の在り方は違ってしまったような気がする。それでも、記録して残していこう。自分がまるで主人公であると思い込んでいた頃が私にもあったこと、そうでなくなってから人前に出る仕事を始めたこと、凡庸と括られるにはずいぶん歪みがみられるし、特別と言い切るにはシンプルさが足りない、中途半端な自分の今日と明日を黙々と考えながら。


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