neo消費社会がもたらす文化の喪失

消費社会というもののあり方について議論されるようになってから短くない年月が過ぎた、と思う。自分自身はまだ23歳なので、どんなに長く見積もっても2005年以前の議論については触れていないと言っていいだろうが、その以前から存在していたことは明らかである。

消費社会、という言葉で何を思い浮かべるだろうか?マクドナルド、ブランド品、大型スーパーマーケット、ハリウッド映画、資本主義。まあなんだっていいのだけれど。消費社会、勝ち組/負け組、画一化、生産効率、これらに対する批判でよく聞くのは環境問題とセットで取り上げることだろうか。消費社会は資本主義とともに成長を遂げ、そのために自然環境に多くの負荷をかけてきた。例えばそれには、農薬による生態系への影響だったり、工場などの生産設備や製品の輸送に伴う化石燃料の使用などが挙げられる。だがその代わり、消費社会はどこに居ても同じものを得られるような環境に行き着いた。田舎の幹線道路に出れば、どの道を進んでも同じ店が並ぶ。その光景に地域による違いはない。こういった風景はいつからか普通になった。

もちろんそこに至るまでの圧倒的な企業努力は凄まじいものであったことは認めるが、それは一方で環境問題や地域問題を引き起こした。そのカウンターとして地産地食というムーブメントだったり、BIO指向だったりが生まれた。こういうことに関心が高いのはヨーロッパだ。ヨーロッパ諸国では例えば慣行農法による自然環境への多大なダメージから反省し、こういうような意識が高くなっているような気がする。そしていわゆるZ世代・ミレニアル世代(20,30歳台)とかいうやつも、こういう事柄に対して敏感である。SDGsが定められ、もはや環境や格差の問題なくしては議論できないような風潮さえある。

そんな中最近思うのは、消費社会が変化してしつつ在るように感じる、ということだ。アメリカでも上記のような若年層を中心に、環境・格差問題に加えて、画一的なモノに対する疑問は生まれてきている。あの消費大国のアメリカで、だ。例えばこの文脈で取り上げられることが可能なのが、D2Cという言葉で語られるビジネススタイルである。D2CとはDirect to Consumerの略であり、要するに仲介を通さず生産から販売まで一括でやってしまうというものだ。そうすることによるメリットは

1.顧客と直接つながることで、商品に対する反応をそのまま商品開発に繋げやすい。
2.顧客に商品のコンセプトや自分たちのヴィジョンを直接伝えることができる。
3.顧客データを取ることで、それぞれに最適化された商品を届けることができる。
4.仲介を通さないことでコスト削減→品質の良いものを低価格で提供できるようになる。

ざっくり以上の点が挙げられると思う。つまりどういうことかというと、従来のどこでも手に入る「画一化」へのカウンターから、「多様性」「個別化」の流れが生まれているということである。

データの時代だと言われるようになってから随分たつ。確かにビッグデータを活用すれば色々なことが可能になる。上記の流れで言えば、それぞれの顧客にカスタマイズされた情報・モノを届けるこることができる、ということがあげられる。例えばニュースであれば、その人がよく見るようなニュースに関連するものを多く表示させられる。SNSであればよく見るアカウントを上位に表示させることができる。モールでは購入履歴や閲覧履歴に沿ったものがオススメされる。音楽や映画も、その人にあったものをオススメしようと頑張ってくれる。広告では興味関心がありそうな分野に合わせてカスタマイズされる。

こういったことは将来もっと進化していくかもしれない。精度が上がれば、その時々の気分にあった音楽や映画、SNS投稿を表示させるかもしれないし、完全にその人に合わせた服や靴などを身につけるのが当たり前の世界になるのかもしれない。おそらく、こういった社会は「みんな同じ」「環境に負荷をかける」「低品質」なものを除外し、ここ30年くらいで消費世界に覆われて味わってきた、”モノはあるのに何となく憂鬱”という状態、あるいは環境や格差の問題を解消する可能性すらある。個人にカスタマイズされた世界はストレスも少ないだろう。こういったことは、いわゆる「well being」みたいなことにもつながることであるかもしれない。

例でもあげているように、これはモノだけに適用されず、情報やコンテンツにも適用される。これまでのハリウッド映画で大ヒット、みたいな作品がやはり興行収入を考えると一番であった(たぶん)。これはある意味で消費社会を象徴しているが、そういったスタイルからnetflixに代表されるような個々人の好みに合わせたコンテンツが紹介され、全く違うものがヒットするようになった。

さらに情報もテレビでのニュースでしか得られなかった時代に比べ、インターネットでの情報検索が用意になり、SNSでは色んな人のポストを含めて多大な情報が流れている。ゴシップニュースや重大なニュースだけがすべてではない。そういった情報過多な世界はやがて、自分にお気に入りのものを表示してくれるようになったが、それも今ではだいぶ一般的だ。

良いことなのかもしれない。消費社会という巨大なものが変化しようとしているのだから。しかし、こういった「多様性」「個別化」「低ストレス」ということは、なぜだかディストピアすら感じるのは気のせいだろうか?

攻略本を使ってゲームをする子供、についての議論が何年か前に合った気がする。攻略本を用いてゲームをすることは確かにストレス無くゲームを攻略し、クリアまでたどり着くことが可能だ。しかしそれならなんのためにゲームをやっているのだ?みたいなことが騒がれ始めたわけである。ただ攻略本に従ってボタンを操作しているだけじゃないかと。まあそれについてはゲームの話なので何が正解ということは言わないまでも、俺はこの「攻略本つきゲーム現象」と「多様性/well beingの世界」というのはどうも似ているように感じるのだ。

つまり、人々は漠然とした不安、消費社会に希望はないし、かと言って何を選び何を行えばいいか分からない、みたいなことに対する解答を欲している。SNSやニュースを見て何となく憂鬱になる、買うもの食べるものはみんな同じになってしまう、気持ちよくシアワセに生きたい、という事柄に対して、在る種の、あなたには今こういうものが適しています、こうすれば良い状態になれますよ、あなたが好みのものに合わせました、みたいなことを言って欲しいのではないかと思うのだ。それもあくまで科学的な根拠に基づいて。

それは在る種の”GOOD”な状態があって、そこに対する答えが個々人に与えられるので、それを実行あるいは享受しないさいよ、ということである。だがその状態は個々人が主体的に選択するという行為を失っている。ただ電子デバイスに触れていれば自分の望むものが得られるなんて、餌を待つ動物園の動物たちと何が違うだろうか?言い換えるなら人々は監視され、情報操作が行われるということでもある。これは人々の”GOOD”な状態のために行われているという前提なので、チャチな陰謀論とかに置き換える気はさらさらないが、それでも全く希望の無い世界に見えるのは気の所為だろうか?

「選択する行為が失われる」ということのほかにも、まだ気になる点がある。それは「人にとって”良いもの”だけを摂取するのが良いことなのだろうか?」という疑問である。例えばよくそれを感じるのが”自然”を意識しているような人たちだ。自然に触れるのは良い行為、精神的にも落ち着く云々のようなことは、あくまで自然の一面にしかすぎない。本当は山や海はとても危険なところだし、当たり前だが人にとって良い面も悪い面も包摂するのが自然というものである。だからこそ、そこに神秘を見たり、あるいは心を打つものがある、と俺は思う。

しかし、そこで自然の中から必要なものだけを取り出して摂取しても、たしかに人のセンサーには反応する。例えばグルタミン酸ナトリウムを食べればうま味を感じるし、linaloolを嗅げばリラックスできるし、観葉植物をおけば何かしら心理学的効果は見込めるだろうし、ゲージに押し込められて工場的に生産された鶏肉でも食べれば腹は満たされる。ただ、そこには何か重要なものが欠落しているように感じる。別にこういったことに対して神経症的に反対したいわけではない。こういったことは人類の進歩において無くてはならない側面だし、経済的には豊かになる。俺もそれを享受している。ただ、そのようなものばかりで埋め尽くされることには耐えられないとは思う。

その人に必要な情報や、好みの情報、あるいは食べ物であったり服・映画・音楽のみに触れるのは、たしかに精神的ストレスは少ないし、人々のセンサーは良好な反応を示すだろう。しかし、精神的ストレスを与えないものというのは、まず芸術や自然からは程遠くなることは間違いない。それがもたらすのは、文化の喪失のように予感する。文化というのは、”社会”と”個人”のギャップに生まれるものだと考える。つまり、当たり前だが我々は個々人にカスタマイズされていない”社会”で我々は暮らさなければならず、そこに自身を当て込むことへのギャップ、構造的な歪みが「文化」として表象され、個々人が一時的な”脱社会”するたのめものとして生まれると考えるからだ。つまり個々人に最適化された世界というのは、「文化」が存在する必要がなくなってしまうのだ。

やはり我々は消費社会から逃れることができないのだろうか?個々人に自動的に最適化された世界というのは、人々がライフスタイルを選択し、そのクラスタとして扱われることを伴うと考える。そうすると例えば、オーガニックであることを指向する人たちは、ある意味で”オーガニックであること”を消費することになる。”ヒップホップ好き”は”ヒップホップの世界”を消費することになる。人々は画一的なモノを消費する社会から進化し、ライフスタイルを消費する社会へと変遷していくのかもしれない。

これは”ハッシュタグ的消費”と名付けても良いような気がする。自分につけたハッシュタグが自分のアイデンティティを表し、それを消費する形で自分に必要なモノをそろえていく。ある意味ではこれもシアワセなことかもしれない。コミュニティも作りやすくなるだろう。だが、人々が社会を失い、精神的ストレスも取り除かれるということは、同時に文化を失うということでもある。我々は文化すらなくなった”neo消費社会”を諸手を挙げて迎え入れるべきなのだろうか?

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