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令和の禁酒法時代に、私は酒造りをする。 |酒と自分との距離を測る

現在緊急事態宣言が発令され、飲食店では酒類の提供が禁止されている。職業柄身の回りに飲食店や多く、また醸造所の併設の飲食店も休業を与儀なくされたので、このことは私にとってもとても身に迫った問題である。

またこのことを"令和版禁酒法"と捉える声も少なくない(というか、実際そうなのだから)。酒類醸造というニッチな職業についていると、やはり思うところも多い。お酒を造っている立場としては、もちろんお酒が飲める機会が減ることで大きな影響を受けることになるし、形は違えど様々な機会でお酒を飲んでほしいと思う。

一方で消費者としての自分に耳を傾けると、最近は特段1人でお酒を飲むわけでもないし、外出して酒を飲むことに対する執着もそこまで無い。もちろん飲食業界をめぐる状況はとても酷いので、このままで良いとは思わないが、お酒を造る自分と、お酒を飲む自分に、引き裂かれるような両側面を抱えている。

今回は自分の中での二面性を抱えながら、お酒と自分との距離を綴っていこうと思う。

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人類史としてのアルコール

そもそもアルコールは人類にとって欠かせなかったものであることは事実だろう。ひどく昔は、人間がある程度アルコールに耐性を持っていたからこそ、ちょっと時間のたった果実でも食べることができ、それが他の生物に比べて食料採取の点で有利に働いたともと云われている。

また文明としてお酒を醸造しはじめてからは、人々の生活にアルコール飲料は欠かせなかった。例えばアルコール発酵することによって、衛生的でなかった水の中の細菌が死滅し、飲料に足るものになった側面もある。あるいは、馬乳酒などは遊牧民の限られた資源の中で、栄養のバランスを補う機能を持っていたりする。

こういった機能的な理由もあるにせよ、文化的にもアルコールは必要不可欠だった。日本でも神事には日本酒が用いられる。あるいは、キリスト教に於いてはワインはキリストの血である。

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人類にとってアルコールはとても長い付き合いだった。しかし現在ではあまり良くない取り上げ方をされることが多い。

今回の緊急事態宣言に関わらず、二日酔いになるからとか、身体に良くないから、のような理由でお酒を飲まない人も多い。アルコールの機能的な側面は、(他にもあるのかもしれないが)基本的にはインフラが整っていなかったことが前提だし、そうなるとネガティブな側面がより取り上げられるのも頷ける。

二日酔いにならない、のような観点でみると近年は大麻の酩酊成分であるTHCドリンクの期待も一部で高まっているように思う。酔えるが、翌日には残らない。それならアルコールよりTHCで良いではないか、という気持ちも確かに分かる。

またアルコールの多用は明らかに健康に害を及ぼすし、酒飲みがよく「酒は百薬の長」と口にして、少量であればむしろ健康に良いのだというが、最近は少量でも影響を及ぼすという説もあるようだ。

アルコールは明らかに外部からの作用を我々の脳・内蔵に与えているわけだし、今更上記のような結果を聞いてもあまり驚きはしない。そして”自己管理をしっかり行いたい”というような意識の人が増えているように感じられる中で、アルコールが煙たがれるのも納得はできる。

そもそも、アルコールは明らかにドラッグであり、たまたま文化的で長い歴史を持っているから禁じられていないだけ、という見方もできる。私はドラッグ=悪とは思わないので、アルコールを飲まないほうが良いと発信したいわけではないが、ただ酔いたいだけなど、ドラッグのような使い方をする人が多いのも事実だ。

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そしたらアルコールはやはり無くなるべきなのか?今までは少しネガティブに聞こえるような側面に触れてきたが、次はアルコールというよりお酒について、自分が惹かれる部分を中心に綴っていこうと思う。

発酵食品として、自然としての酒

酒造りという仕事をしていて面白いなと思うのが、今の御時世に微生物によって発酵させたものを造っているという点だ。すべてが言語化され(たかのように錯覚させ)、不確実性が排除される世の中で、微生物による発酵の何たる不安定さよ…!発酵と腐敗は人にとって有用かどうかの違いだ。いわば古くなった食べ物が腐敗していくようなことと現象的には同じことが、酒造りの現場では起こっている。

造っている側からしても、大袈裟に言えば「気づいたら酒になっている」ような感覚を持つ。自分が能動的にはたらきかけなくても、勝手に酵母によって酒は造られるのだ。自分の制御下に置くことのできない、この一連のプロセスは、前述の”自己管理をしっかり行いたい”のような考え方からは遠い。それが酒造りの非常に魅力的な側面であるのだが、そのことについてはまた別の機会に記してみよう。

そして造り手として感じている、この"不確実性さ"が、同時に飲み手として酒が好きな理由でもある。言葉では形容できない味わいや香り、飲み心地などに不思議と身体がリラックスしたり、感動したりする。大仰だが、豊かな自然に囲まれているような感覚を得られることもある。

私はアルコールが好きなわけではなくて、お酒が好きなのだ。ただ酔うための選択肢としてであれば、THCの方が優れているならそちらでも良いと思うし、そもそも摂取しない選択肢も抱えている。しかし、この”不確実性”の一点に飲む理由が存在している。

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ただ、そういったことを感じられるお酒はとても限られているし、そもそも毎日摂取したい・一人で飲みたいというわけでもない。そして、ここで自分が感じる疑念は2つだ。①すべての酒が残るべきなのか ②(自分にとって)どういったシチュエーションで酒は必要と思うか。

①すべての酒が残るべきなのか

結論からいうと、当たり前だがすべての酒は残るべきだ。悪名高いストロングゼロでも、そうかもしれない。それを必要とする人がいて、それを作る人がいる限りは、全ては守られるべきのように思う。

一方で、飲み手の健康を考えることは必要なことのように思う。それはデザインする側の責任というか、テック業界でも散々SNSについての悪口が言われているが、消費者側の健康を奪うことはやはり良くない、ということだ。しかし前述の通り、酒はある程度の害をもたらすのは事実なわけだから、難しいところではある。

また大手メーカーでなくても、中小規模の酒蔵は文化の多様性にとって欠かせない存在であることは間違いない。文化が失われることは避けるべきだと思う。

しかし、ここに人間の習性の罠があるように思う。人間は言語を獲得した生き物だ。言語によって、事象を記号化して処理し、未来に向かってプロトタイプすることができる。そうやって未来を言語によって体感できるからこそ、過去(経験)からの動機づけだけでなく、未来(言語)による動機づけを行うことができる。だからこそ人類はここまで進歩したとも言える。

言い換えるなら、人は過去/昔ながらのことを守っていたからここまで発展していたのではく、未来を望む言語の力があったからこそ、ここまで発展したのだ。そしておそらく習性として、そういった未来に関する高揚の方が、経験からくる義務に優るのでは無いだろうか。

だから「今までの文化を守る」というのは正しいように聞こえるが、結局「こうなりたい/こうなったら面白い」という開かれた未来の方が人を駆動するのだと思う。

私自身も今までの文化を守るということに消費活動として貢献できている部分はごく僅かだ。結局消費するのは自分が魅力を感じるお酒ばかりだ。行動に移されなければ、思うだけでは何も変わらないことは承知の上だし、そもそも一個人ができることは限られている。

ここには自分の考えと行動の矛盾が浮き彫りになる。こういった問題は構造やシステムを変えなければどうしようもない、という言い訳を用意して思想と行動を切り離すも、自己嫌悪を無視することはできない。

②(自分にとって)どういったシチュエーションで酒は必要と思うか

少なくとも、私は自分一人で大量にお酒は飲まない。これも不思議なことだ。お酒の味わいに魅力を感じているのなら、一人でもそれを楽しめばいい。

例えば日本酒はお祭り後の直会で飲まれるのが宴会の始まりとも云われるが、その際「神人共食」という概念が大事だったりもする。要するに神様もみんなも同じものを食べて飲むことで、連帯を高めましょう、みたいなことだ(たぶん)。

酒はコミュニケーションの潤滑油ともいわれるように、気持ちをリラックスさせて他者との交流による満足度を高める側面もあるし、そういった効能は昔から人にとって重要だったのかもしれない。だが一方で、アルハラといわれるように酒の席で飲酒を強要することが問題になっていたりする。勿論アルコールを前提としたコミュニケーションしか成り立たないようであれば、それは異常である。

個人的には酒の魅力である”不確実”は、他人とのコミュニケーションにも感じられるものであると思っている。他人というのは自分と違う人なわけで、そんな他者となにか共有できるということ自体奇跡であるという信条を持っている。これはまさに不確実性が為せるわざである。

自分はこういった酒・他者との関わりの両者の不確実性が互いに感じられるのが好きで、酒を飲んでいるのかもしれない。

おわり

とっちらかってしまったが、なんとなく自分の感覚は整理することができた。

これまでの、どうしようもなく個人的な意見をまとめるなら、
「アルコールはたまたま人類と付き合いが長いドラッグなのであって、そういう面では規制されてもやむないのかもしれない。だが今のエコシステムは守られるべきだから、産業を無くすべきではない。またそれとは別に自分は、コミュニケーションとかけ合わさった”不確実性”にどうしようもなく惹かれている。」
といった感じになる。

前者のところで言えば、まずドラッグ的な使用をする人たちの、アルコールに対するリテラシーは高まった方が良いとは思うし、またこういった特殊な状況において産業が守られるシステムを構築されるべきである。だがこの途方も無い課題を前に、個人にできることは何があるのだろうか?

また繰り返すようだが、自分が愛する”不確実性”はどんどん排除される傾向になるだろう。自分にとっては危機的な状況であることには違いない。自分で守っていくしかないのだ。そのために私は酒造りをしているのかもしれない。

どうしよもうない結論になってしまった。

おわり

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