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アルプス席の思い出

もうはるか昔のことだけれど、母校が甲子園出場した。

創部3年目の公立校が地区準決勝まで勝ち上がった快挙から、春の選抜大会に出場が決まった。私が高2の秋のことだ。学力を上げて何らかの実績をつくりたがっていた新設校だったから、先生方は沸き立った。学校近くでは「甲子園出場おめでとう」の横断幕がかかった。
新設校ゆえグラウンドにはまだバックネットもなくて、急きょ野球部のための設備が整えられた。卒業生がまだおらず資金がないからと、在校生全員の家まで寄付の依頼が来た。一口が1万円と聞いて母は値切りたかったが、同級の父兄に言い出しづらかったらしい。常連校はさぞ大変だろうとぼやいていた。

地元兵庫で日帰りできる近さだったから、甲子園応援は全校生徒に義務づけられた。
出来たてで、何の特徴も問題もまだない学校だ。
「男女が連れだって下校すると、隠れて見張っている校長に捕まる」
と噂されるほどのエキセントリックな校長と、その校長の指導するガチガチの校則と服装規定に縛られて、生徒たちは無気力のかたまりみたいだった。応援練習にもおとなしく従いはするものの、いかにも仕方なくダルそうな態度であった。まあ人文字の練習なんぞ、わけもわからずあっちだこっちだと振り回されるだけで、面白くもなんともない。私も野球に興味なかったし、何より当日は明け方から出動しなければならないことに不平たらたらだった。

明け方に出発というのは、本番よりひとつ前の試合からスタンバイしておく必要があったからである。母校が出るのは第二試合なのだが、出場校の応援団はひとつ前の試合から、先の応援団の隣のスペースで待機(試合が終わると横に移動)するらしく、そうなると明け方に出発するしかない。始発前の時間だったが、地元の私鉄が特別列車を出してくれた。先頭車に校名を入れて飾り付けてくれていた気がする。道中のことはよく覚えていない。だらだらとお喋りして、降りてからはだらだらと列に続き、アルプス席に着いてからまただらだらと喋りながら本番が始まるのを待っていた。春の日差しがきつかったと思う。いまのように暑い夏でなかったのは幸いだった。今年の大会はこれからだが、万が一にも倒れる生徒が出ないように気をつけてほしい。

対戦相手は甲子園の常連校だった。対戦校の4番打者はその後プロ入りした有名人。こちらが冷めていたのは、とうてい勝てまいという諦めもあったのだろう。だが、その強豪校相手にヒットを打った瞬間から応援に熱が入り始めた。相手のピッチャーの調子が上がらないうちにぽんぽんと点を入れて、スタンドはおおいに盛りあがった。あれほど無関心であった生徒たちが、応援団として一体化し、吹奏楽部の勇ましい演奏に声を合わせてトランス状態になった。同級生たちの見慣れない興奮状態に異様さを感じながら、私にとってもまた快感だった。
序盤に3点を得てはしゃいでいたが、回が変わると相手ピッチャーは持ち直し、強豪校ならではの打線に容赦なくやられた。結果、12対3で見事な負けである。帰りに球場の外で、興奮冷めやらぬ男子が抱き合ったりしているのを、だいたいの生徒は奇異の目で見ていた。胸にまだ感動はあったが、感情はコントロールしていた。感情を大っぴらに出すのは格好のいいことではなかった。大人になってみれば、若者であればこそ、感情を抑制することはないのに、と思える。でもその当時はいろんなことを抑えてばかりだった。たぶんみんなも。

#高校野球 のタグを見て、思い出を語りたくなり、記憶を掘り起こしてみた。ろくな思い出がない高校生活だが、唯一それに花を添えてくれた行事である。
しかし掘り起こすとついでに、この春休みで思いを寄せていた先生が転勤してしまったこととか、新学期から校長とはまた違うエキセントリックな担任に、進路の件でみみっちい嫌がらせを受けることとか、ネガティブな記憶が芋づる式に出てきてしまう。だから全部出てこないうちに蓋をする。用心のためににジップロックで封じておく。ここで終わり。ぱちっ。


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