歩くたまご

穏やかに生きるすべを模索中。刻々と変わりゆく自己の脱け殻を、文章にして標本化していきま…

歩くたまご

穏やかに生きるすべを模索中。刻々と変わりゆく自己の脱け殻を、文章にして標本化していきます。

マガジン

  • エッセイ

    日常に開いた穴を覗く。

  • 空にまつわる本棚

    空にまつわるおすすめ本の紹介。気が向いたら追加していきます。

  • 愛着についての困難感、向き合い方の一例

    愛着にコンプレックスがある者です。 最近、心安らかにすごせるようになってきたので、そこに至るまでの方法論や思ったことを、経験談としてまとめてみました。 右往左往した結果、「あのときのあれって、こういうふうに今役立ってるんかな?」と思ったことを、主観的な立場から、なるべく詳しくまとめたつもりです。 こうすべき、という提案ではありませんが、「こんなケースもあるのね」というひとつの標本としてお納めください。

最近の記事

罪悪感、あるいは理想について

罪悪感にまみれて一歩たりとも動けなくなる人がいる。努力しなければならないのに、できない。そのエネルギーがない。そして余計に自分を責める。かつて私はそうだった。そのどうしようもない状態から抜け出しかけて今改めて思うことがある。「罪悪感に常にさいなまれ続ける精神状態は、平静を失っている」ということだ。 私が罪悪感にさいなまれるようになったのは、幼少の頃には単なる「遊び」ととらえていた行動を、不適切な「中毒」であると自分が認識してからである。ここでいう「中毒」とは「嫌なことを紛ら

    • 毒にも薬にもならぬ個性について

      自分の特性についての悩みの解消の仕方は人それぞれだろう。真っ向勝負でたとえば「気になるものを気にしないように」矯正を試みる人もいれば、「気になるものをつきつめる」ことで意図的に武器にする人もいる。 私はどちらでもない。「『何かを気にする自分』を諦めて、あとは成り行きに任せて」生きている。 たとえば私の特性のひとつは、言葉への執着である。 さんざん自分を含む人間全般への違和感を書き連ねておきながら、意外に思われるかもしれないが、私は人と一対一で長いことしゃべらざるをえない仕事

      • 自分は誰なのか

        冗談のような話だが、私はよく自分が誰なのかわからなくなる。名前や記憶を失うわけではない。ただ、ひとりの人間として一連の人生を歩んできたという実感が、とても乏しくなる瞬間があるのだ。 それは、何かに忙殺されたあと、ふいに余暇ができたときだったり、とても傷つく出来事から少し時間がたって冷静になりかけたときだったりする。あるいは何か楽しいことが終わったあとだったりもする。どこか冷えた思考回路の端で、「何故、こんなことしてたんだっけ」と思う。物心ついた頃からそうだった。というより、

        • 私の「赤」とカタルシス

          人は誰でも、自分の意識が「そう」知覚した仮想現実の中を生きている。 客観的な事実としての現実と、「自分が知覚している現実」は違う。そして人として主観的な知覚を以て世界を認識して生きる限り、「本当の客観的な事実」を知ることは誰にもできない。 何も、私は「客観的な事実が存在しない」などと主張したいのではない。ある林檎の色を指さして、あなたと私とで「赤」と共通の名前で呼ぶことはおそらくできるのだ。ただ、あなたの見ている林檎の赤と、私の見ているそれが、実感の上で必ずしも同じではない

        罪悪感、あるいは理想について

        マガジン

        • エッセイ
          47本
        • 空にまつわる本棚
          2本
        • 愛着についての困難感、向き合い方の一例
          7本

        記事

          議論を尽くすということ

          議論を尽くすということはいつでもとても難しいと思う。社会的立場上、私には近頃「誰かに何かを問われ、自分の知り得る限りのことを伝えたり実行したりする」機会が増えた。これを繰り返す中で、まず直面したのは「自分の知識の限界」や「自分の論理的思考力の限界」であり、次に直面したのは不測の事態の存在、つまり「自分の想像力の限界」または「自分の先入観」である。 何かしらの疑問について議論を尽くし、最も確からしい解答を導き出すには、少なくとも(1)適切な前提条件を仮説として設定したうえで、

          議論を尽くすということ

          自分語りについて思うこと

          私はインターネット上ではいわゆる「自分語り」をすることをモットーにしている。自分が本当に事実として語れるのはそれしかないからであり、また、人の感じ方・考え方のサンプルのひとつとして自分に見えているものを提示したいからでもある。ときに表現がわがままであったり、稚拙であったり、視野狭窄であったりしても、できる限り人を傷つけない工夫はして、やはりそれを提示したいと思う。私が自分を語ることは、見知らぬ誰かにとって他者の一面を知るための重要な機会となり得るからだ。それはたとえば、顔も名

          自分語りについて思うこと

          がんじがらめを受け入れる

          たとえば、孤独を感じて傷ついているとき、誰かと繋がりを持ちたい一方で、いつまででもひとりきりで悲しんでいたくなることがある。あらゆる人のあらゆる主張に触れるたび、誰も悪くないのに、なぜか自分の心だけがすり減っていくことがある。なんとも不思議で不都合な現実だ。寂しいなら人を求めればいい、心のわだかまりは吐き出せばいいはずなのに、実際には何もできずにひとり体を固くしてじっと息を殺したりする。なぜだろうか。 臨床心理学の世界では、たとえばこれを「予期不安に対するオペラント行動」と

          がんじがらめを受け入れる

          普通の幸せ

          初対面の人や、付き合って日の浅い人と世間話をするにあたって、いつも答えに困る質問がある。 「休みの日に何をしていますか」または「趣味・好きなものは何ですか」である。 以前はこの質問をされると、頭の中を瞬時にクソ真面目な思索が駆け巡っていた。「趣味とは何か」と。 白状すれば、私には気軽に「ちょっと時間あるからあれやるか」と手を出して「あー、楽しかった!」と楽しめる類の趣味はない。気分が奈落に落ちたときに、それを忘れるために中毒する対象はあったが、ただ死活問題でそれに明け暮れて

          普通の幸せ

          自由に生きるということ

          「自分らしく生きる」「自由に生きる」ということについて、最近よく考える。どちらもよく似た概念だ。しかし似て非なる概念だ。自分らしく生きること、自由に生きることととはどういうことだろうか。 まず、自分らしさも自由も、単なる「外的制限のなさ」を示すものではないだろう。多くの場合、人は物心ついたときにはすでにいろいろなステレオタイプを学んでしまっていると思う。 たとえば言語表現である。日本語で表現できる世界と、英語で表現できる世界は、だいぶ違う。 あるいは文化である。身近な人々の

          自由に生きるということ

          癒えないものと付き合うということ

          人生において、何か望まぬアクシデントに遭遇して深い傷を負い、一握りの希望をどうにか見出して、その傷を癒そうと試行錯誤し、躓いては立ち上がって、努力に努力を重ねる。 それでも万策尽きて、ふと努力に費やしていた思考に余白ができたとき、「決して治らないのではないか」「すべて無駄なのではないか」という無力感が去来する。 私は何度かそのような経験をして、人生におけるいくつかのことについて、自分の望み通りに推し進めるのを諦めた。 「諦めるな、逃げるな、単に努力の方法が悪いのだ」という内

          癒えないものと付き合うということ

          必要な苦しみ、不必要な苦しみ

          「大変だったけど、あれは必要な苦しみだった」と形容されるような人生経験のエピソードは、誰にでもいくつかはあるものだと思う。一方で、単なる理不尽としかいいようのない純然たる災難に見舞われることもある。 前者を「必要な苦しみ」、後者を「不必要な苦しみ」と呼ぶのだとすれば、その境目はどこにあるのだろうか――ふと、そんなことを考える。 両者を区別するためのこまごまとした条件を列挙しようとすれば、人それぞれにいろいろな考えがあるだろう。 たとえば、自分で望んだ道の先にあった苦しみか、

          必要な苦しみ、不必要な苦しみ

          アイデンティティについて

          中高校生だったころ、自分には一切の長所もなければ嗜好もないと感じて悶々と悩んだことがある。進路選択を意識し始めたころだ。 あの頃は、やりたいことを仕事にする人が、いちばん「正しく生きている」のだと思っていた。裏を返せば、自分の意志薄弱さを気に病んでいたとも言える。「正しく」生きてみたくて、しかし何が「正しい」のかわからず延々と悩んでいた。「正しい」と信じられる何かがあれば、強く溌溂と生きられる気がしていた。そして、その「正しい」何かこそが、自分の基盤、自分のアイデンティティに

          アイデンティティについて

          思考の軌道修正について

          誰にでもちょっとした思い込みや誤解はある。日々、人々の言動の中にふんだんに織り交ぜられ配置されるそれらは、思考回路における一方通行の標識のようなもので、その人の性格や過去を如実に表す。 私はそうした言語・非言語記号の標識に沿って、思想のホログラムの中を無目的に歩くのは比較的得意だ。自分の思考然り、他者の思考然り、概ねどういう標識がその思考回路に設置されているのかは、会話をしていれば何となく想像はつく。なぜその人がそういう思い込みをするのか、今何をどう誤解してその言動に至った

          思考の軌道修正について

          パンドラの箱を開けるということ

          多忙につきしばらくまとまった量の文章を書くのをさぼっていたので、久しぶりに何か書いてみようと思う。 今年は世界的に重苦しい春となったが、それでも春は春である。年度も変わったことだし、本年度の目標でも考えてみることにする。 人生には、たとえ解決のめどが立たなくても、抱えていかなくてはならない、あるいは気づかなければならないものごとが存在するものだと思う。 いわば、誰もが例外なく何かしらのパンドラの箱を持っている。 さらにいえば、「持っている」というより、自分がパンドラの箱その

          パンドラの箱を開けるということ

          その存在を「肯定」したい

          近頃、ひとり黙って考え込んでしまうことが多いので、リハビリとして曖昧に考えていることをありのまま出力してみようと思う。「他者を無防備に全肯定したい」という気持ちと、「それが本当にその他者のためになるのか」という気持ちのせめぎあいについてである。 これは私にとっては避けて通れない議題だ。なぜなら、これはおそらくかつて私の養育者が幼いころの私に対して抱いた葛藤であり、私はその葛藤の悪しき側面によって私自身の自律性を徹底的にすりつぶされたことがあるからだ。その経験は、今も心の奥底

          その存在を「肯定」したい

          藁を掴む手

          溺れる者が藁を掴もうとするとき、その力はあまりに強い。 私はこれまでの人生で一度だけ、掴まれる藁の気持ちを味わったことがある。10代前半のころだ。それはいわゆる習い事で、定期的に同年代の者が集まる場でのことだったが、私がひとりでぼんやりとしているところへ声をかけてきたのがその人だった。 その人はとにかくひどく萎縮した様子で「友だちになってくれないか」というようなことを私に言った。何か不安を抱えているのは一目瞭然だったので、私はできるだけ相手の気持ちを和ませたくもあり、気軽に了

          藁を掴む手