BUMP OF CHICKENが唄う別離について

 BUMP OF CHICKENのなにがそんなに好きなのかと聞かれたら、「愛とか恋とか安易に言わないところ」と答えたい。言った相手がラブソング好きだったら怖いからあんまり言わないけど。もちろんBUMPにもラブソングがあるのは知っているけれど、わりと初期のラインナップに固まっているイメージもある。少なくとも、わたしがよく聴く「COSMONAUT」以降の曲には、わかりやすくラブソングだなあと思うものはないような気がしている。
 別に、愛とか恋とかを歌うことがどうのこうの言いたいわけではない。端的に言えばわたしがそういうテーマが好きじゃないというだけで、別に好きなひとはBUMPの曲も「僕」と「君」の関係は全部恋人かそれに類するものだと思っていたとしても、わたしに否定する権利なんかないし、事実はBUMPの4人しか知らないわけだからどうでもいい。ただ、わたしがBUMPを聴き続けるのは、愛でも恋でも、かといってただの友情ともとりがたい、なんだか掴みがたいよくわからない、それでも美しい感情を拾ってくれるという信頼があるからだ。

 二者関係(「僕」と「君」)を描くBUMP OF CHICKENの曲には、別離から始まるものがわりと多い。思いつく限りで、「ray」「サザンクロス」「グッドラック」「宝石になった日」「アリア」なんかはわかりやすくそうだ。けれど、そのほかの曲をとってみても、BUMPが描く二者関係で、別離を前提とされていないものは、わたしが思いつく限りたぶんない。すくなくとも「COSMONAUT」以降には絶対にない。絶対とか言い切ると怒られるのかもしれないけど、絶対にない。「宇宙飛行士への手紙」で、「死ぬまでなんて嘘みたいな事を本気で思う」ということすら、「いつか星になってまた一人になる」という別離の前提のもとに歌うようなひとたちだ。これは断言できるだろう。
 裏を返すと、彼らは、「一生離れずにともに生きよう」とは歌わないし、ましてや「永遠になるためにともに死のう」とはもっと歌わない。彼らが歌うのは、すでに別れた/いつか別れる相手が隣にいたこと/いること、そして、彼らと別れたあとも自分は生きていくのだということだ。別離には痛みが伴うし、ともに生きることにあるのも幸福だけではない。肯定できない痛みもあるだろうし、忘れてしまうこともあるだろう。それでも生きていくことと、生きていくひとが、歌われている。

 ここ数年ではいちばんヒットしたであろう「ray」を例にあげよう。BUMPはここのところ、あんまり明るくもない歌詞の曲をやたら明るく歌い上げる傾向があるが(「HAPPY」とか「宝石になった日」とかもそう)、「ray」はその顕著な例だ。
 この曲の基本的なストーリーは、「君」との別離に伴う痛みを、現実を生きているうちに忘れてきてしまっていることは自覚しているけれど、毎日を生きていくのはわりとしんどくて、ごまかして言い訳して生きたって、「君」との別れの痛みを忘れてしまったって、それがあったこと、君といたことが消えるわけじゃない、ちゃんとあるから大丈夫だ、という感じだろうか。

お別れしたのは何で 何のためだったんだろうな
悲しい光が僕の影を 前に長く伸ばしている
   ——「ray」BUMP OF CHICKEN

 タイトルからも予想される通り、「光」という言葉がよくでてくる。「悲しい光」という使われ方もするが、最後には「この光の始まりには君がいる」と歌って曲が終わる。「悲しい光」の始まりは、「君」と別れたその瞬間のことだろう。「君」と別れたことで生じた光に後ろから追いかけられているという事実は、「君」と出会ったことに道を作られている、照らされている、という事実を完全に内包する。(このへんの、後ろから、という感覚は「宇宙飛行士への手紙」の「後ろから照らしてくれる」とか、「beautiful glider」の「鳥になってついてくる」とかに通じるものを感じる)

お別れした事は 出会った事と繋がっている
あの透明な彗星は 透明だから無くならない
    ——「ray」BUMP OF CHICKEN

 おそらく、「透明な彗星」もこの「光」とほぼ同義だろう。光はそれそのものとしては目に見えないからこそ、その存在を忘れてしまってもたしかにそこにあるし、「君」といたときは見えた彗星は、君と別れたあと「悲しい光」とともに忘れられたけれど、「透明だからなくならない」。そういうのを全部ひっくるめた上で、この曲のいちばんの名言、「大丈夫だ あの痛みは忘れたって消えやしない」に繋がるのだ。

いつまでどこまでなんて 正常か異常かなんて
考える暇も無い程 歩くのは大変だ
楽しい方がずっといいよ ごまかして笑っていくよ
大丈夫だ あの痛みは 忘れたって消えやしない
   ——「ray」BUMP OF CHICKEN

この部分は、「宝石になった日」の、「こんなに寂しいから大丈夫だと思う」と概ね同じ発想だろう。
 「別れたこと」を通して「出会ったこと」を揺らぎようのない事実に固める(出会っていなければ別れられないから)、という手法は、「グッドラック」に顕著で、「サザンクロス」の「さよならを言った場所には君の声がずっと輝くんだ」、「アリア」の「僕らの間にはさよならが 出会った時から育っていた」あたりの表現もそのシノニムだろうか。この二曲も別離を陽に描く曲だが、「ray」やその他の別れの曲も、風呂敷を広げればBUMPのすべての別離を前提とした人間関係の曲も、「別れたこと/別れること」を絶望だとは捉えていない。「ray」や「宝石になった日」はそこから自分が生きていくことを歌う曲だが、「グッドラック」や「サザンクロス」は、自分と別れたあとの相手の幸福を祈る曲だ。

くれぐれも気を付けて 出来れば笑っていて
騙されても疑っても 選んだ事だけは信じて
 ——「グッドラック」BUMP OF CHICKEN

しかしいずれにせよ、別離が終わりではなく始まりであるように描かれている、というのは大きな共通点だろう。ひととひととが、一生ともにいる、永遠をともにいる、とは歌わない。「僕」と「君」との関係は必ず別離を伴うが、「君」を伴わない「僕」や、「僕」を伴わない「君」は、そこから生きていくのだし、幸福になるのだ、なってほしいのだと歌っている。

 別離を前提とする、という意味を踏まえて、語っておきたいわたしの好きな曲をあげるとすれば、「(please)forgive」と「流星群」だろうか。 

あなたを乗せた飛行機が あなたの行きたい場所まで
どうかあまり揺れないで 無事に着きますように
——「(please)forgive」BUMP OF CHICKEN

 「(please)forgive」は、別離というよりは、最初から「私」と「あなた」はまったく独立の存在であり、どちらかがどちらかを伴うという関係性はない。しかし、「あなたを乗せた飛行機があなたの行きたい場所まで」から始まって綴られる思いには、「あなた」の隣にいるのは自分ではないが、「あなた」のことを、その生き方を憧憬するし、自分には成し得ない、けれどどうしても焦がれてしまう幸福が、「あなた」に訪れることを願う、という祈りを感じる。これはむしろ、「別れる(別れている)こと」を必要条件とした思いだ。
 「流星群」のほうは、「僕」と「君」が最初から最後まで一緒にいる曲だが、この曲にも別離の香りが漂っている。

たとえ誰を傷付けても 君は君を守ってほしい
    ——「流星群」BUMP OF CHICKEN

いままさに隣にいるのに、「僕が君を守る」とは決して歌わないところに、「僕」と「君」の関係に永続が想定されてないことが見て取れる。「天体観測」に始まり、「銀河鉄道」「プラネタリウム」「宇宙飛行士への手紙」「サザンクロス」などなど、BUMPは宇宙や星をテーマにした曲を多く書くし、藤くんがそれらのモチーフが好きなのは有名な話だが、並べてみても驚くほど暗い曲もしくは別れの曲ばかりだ。逆に言えば、それこそがBUMPの根底をなすテーマなのだろうとも思う。(完全に余談だが、BUMPは「宝石」というモチーフも、おそらく星のシノニムとしてよく使う。「ダイヤモンド」「ディアマン」を始め、「宝石になった日」はもちろん、「GO」「アンサー」あたりにも宝石のモチーフが現れる。いまのとこダイヤが使われることが多い気がする。)

 「ray」を聴いていて、いちばんまじかよと思ったのは、3回目のサビで藤原基央が、「生きるのは最高だ」と歌った瞬間だった。

◯×△どれかなんて 皆と比べてどうかなんて
確かめる間も無い程 生きるのは最高だ
    ——「ray」BUMP OF CHICKEN

BUMPは基本的に生きていくことはしんどいものだという前提で曲を作っているとわたしは信じているし、すくなくとも藤くんはそうだと思っていたしいまでも思っている。(これはBUMPの、自分だけを歌う歌で基本的には顕著だ。「ディアマン」や「firefly」「GO」などなど、まちがいなく、生きるのは最高だと本気で思っている人間の書く歌ではない。)「ray」におけるこの一節には、改めて聴くとどこか開き直りのような、言い訳のような、自分に言い聞かせているような、そういう雰囲気を感じる。それはやはり、別離をスタート地点としているからこその思いであるのではないだろうか。別離を抱える以上、人生は常に痛みをともなうし苦しい。BUMPは(藤くんは)そのことをずっと歌ってきたはずで、だけどついに、藤原基央が、「生きるのは最高だ」と言ったぜ、その言葉に、彼が(彼らが)歌ってきたものを集約することをついに許したぜ、という感慨がある。たぶん、それは簡単なことではなかったと思う。(ちなみに、去年ドームツアーに行ったとき、個人的にいちばんテンションが上がったのはこの曲のこの場所だったし、正直わりと素直に生きるのは最高だって思いながら跳んだ。銀テープは前の席の背の高いお兄さんに全部持ってかれた。)

 別離を伴うことを前提とされている感情を、恋情や愛情と読むかどうかは冒頭で述べた通り個人の自由なのだとは思うが、わたしには、それは恋愛感情のみならず、もうひとつ大きなくくりでさまざまな感情や関係を非限定的に含むなにかなのだと思えてならないし、思いたい。BUMPの曲はそういう意味で、あんまり前向きではないし底抜けに明るくもない、けれどたしかに人生讃歌なのだと信じている。


註:2017年頃に書いた文章なので、文中で言及している「去年のドームツアー」はBFLYのことです。PATHFINDERに四回行ったはなしもそのうちどこかで書きたいです。

今後の創作活動のため、すこしでもご支援を賜れましたら光栄に存じます。どうぞよろしくお願いいたします。