第四章 - こぐま座アルファ星

「森田、櫻林と合同練習する気ない?」
 合宿後すぐに行われた個人戦の大会が終わって数週間後、練習終わりに部室で携帯を弄っていた雅哉が優都に声をかけた。着替え終わった直後の優都を彼は自分の元に呼び、携帯の画面を見せる。優都はそれを覗き込みながら何度か瞬きをして、え、と短く声を上げた。
「そうか、おまえ、松原のチームメイトだったんだもんな」
「あいつは中学のときからずば抜けて上手かったわ」
 優都の口から出た名前にはかなりの聞き覚えがあったものの、京には咄嗟にその出所が思い浮かばず、隣にいた潮に視線を向けた。潮は珍しく表情を消して、雅哉と優都のほうをぼんやりと見ていた。京の視線に気づいて、彼ははっとしたように表情を繕い、「けーくんどうかした?」といつもの軽い口調を向けてくる。
「や、先輩らが話してんのだれのことだっけと思って」
「松原さん? 櫻林の超強いひとじゃん。俺らの一個上で、えっと、都個人二位だったひと。風間と最後まで射詰してて――あ、てか今年個人でも団体でもインハイ行ってたぜ」
「あー、わかった、思い出した。あれだろ、髪短くてこの辺刈り上げてるひとだ」
「そうそう」
 潮と小声で話しているうちにも優都と雅哉は二人で携帯に向き合っていて、優都が「櫻林の主将は松原になったのか」と呟いたのが聞こえた。
 雅哉が中学時代所属していた櫻林大学附属中学・高等学校は、都内で一、二を争う弓道の強豪校で、個人、団体ともに都で二枠ずつしかないインターハイや全国選抜の出場枠を毎年のように獲得しており、部員数も多く歴史の長い部だ。優都と千尋が中学で翠ヶ崎の弓道部に入った当時の主将は、高校は櫻林に進学したという話は京にも聞き覚えがある。
「櫻林と練習できるなんて願ってもないけど……」
「じゃあ日程調整しようぜ。光暉(こうき)、二年連続で翠ヶ崎に都個人獲られたの相当悔しがってるらしくて。おまえとも話してみたいって」
「はは、僕去年のあの時期絶好調だったからな――まぐれだと思われないように気合い入れないと」
 そう言って肩を竦めた優都は、つい数週間前に行われた個人戦の都大会で、あまり思ったような成績が取れなかったことに、あまり表には出さないながら焦りを覚えているようだった。昨年度、見事なまでの全射皆中で一年生にしてその大会を制した優都は、都内でも有数の実力の選手であることはたしかだけれど、今年度に入ってからはあまり目に見えた実績がない。その横で、今年の都個人では、拓斗が櫻林高校の松原光暉という都内トップの選手に競り勝って優勝を決めた。今年二年生にして、都で二枠しかない個人戦のインターハイ出場権をもぎとった松原に勝るとも劣らない実力を持つ拓斗は、インターハイこそ出場枠を取るには至らなかったが、都個人が開催された夏の終わり頃には、まだ高校に上がって半年も経っていないにも関わらず、松原と並んで都の最上位層として知られる存在になっている。
「でも、古賀はいいの? なんというか、いろいろあったんだろ」
「え? ああ、まあ……でも、もう他校だし。同期とはわりと仲良かったし、平気だよ。あっちのメンバーが強いのもそうだけど、うち、ちゃんとした指導者いねえし、強いとこの先生に見てもらえんのも、特におまえとか風間には役に立つだろ」
 ちょっと気難しいじいさんだけど、と笑った雅哉もまた、優都がここのところ、かなり長いこと思うような弓が引けず焦っているのを気遣っているのだろう。それを察してか、優都はすこし間をおいて「ありがとう」と雅哉に言った。彼はそのあとふいに振り返って、ネクタイを結んでいた潮のことを見やった。優都は潮になにを聞くでもなかったけれど、その目線を目ざとく察知した潮は、優都に向かって大げさに肩を竦めて見せた。
「櫻林からお誘いくるなんて、翠ヶ崎も大出世っすね。やっぱ先輩らと風間ってすげえんすね。俺松原さんもすげえと思うけど柏さんの弓もめっちゃ好きなんすよね、あわよくばお近づきになりたいっすわ」
 向こうでやるんですか? と問うた潮に、優都が「そうなるんじゃないかな」と返すと、潮はふいにはっとしたように真面目な顔になり、優都に体ごと向き合った。
「あ、でも、俺の一番は優都先輩っすからね。浮気じゃないんで、そこんとこ勘違いしないでくださいねまじで」
「迷惑かけそうだし置いて行こうかな……」
「えっ、待ってください今日当たり厳しい」
「翠ヶ崎の恥部を晒しそうっすもんね」
「待ってけーくん純粋にひどくない?」
 そう言って派手な身振り手振りで喚く潮を見て、「相変わらず元気だな」と雅哉が笑い、優都もそれに軽く同調する。
「櫻林って弓道もそんな強いんですか?」
 京と潮の横では、由岐が隣にいた千尋と拓斗にこっそりとそう問うていた。「松原とか柏は俺でも知ってるくらいだけど」と千尋が返したのに対して、拓斗は一言、「強えよ」と言い切った。
「インハイも全国選抜も、ここ十年は二枠のうち片方は櫻林だし、松原さんはまじで上手い。あの代では断トツ」
「風間がそれ言うのよっぽどじゃん……。あそこ、空手もかなり強かったし、運動部すごいな」
「あの学校部活に全力だろ」
 大抵の場合他人の弓に対してさほど興味を示さない拓斗が、先日接戦の末に負かした相手を素直に認めるのを聞きながら、凡人には差がわからない次元で相当な実力なのだろうということを実感する。由岐は制服のブレザーを羽織りながら、いくぶん不安げな表情で、「俺大丈夫かな」と呟いた。
「そんな強豪だったら、みんな中学からやってるんだろうな……付いてけるかな」
「別に、平気じゃねえの。人数多いしピンキリだろ」
「いや、ゆっきー、おまえ一年目とは思えねえくらい普通に上手いから自信持てよ」
 特に感情も込めずに答えた拓斗に続いて、潮が由岐に近付いて背中を叩くと、由岐は照れたように笑って「ありがと」と言った。
「櫻林は大所帯だし、僕らとはだいぶ雰囲気も違うだろうから、技術以外にも学べることは多いだろうな。楽しみだよ」
 よろしくな、と雅哉に向かって言った優都に、雅哉は「任せろ」と答え、返信の戻って来たらしい携帯電話にまた向き直った。

*

 雅哉の中学時代の伝手を最大限に使ってセッティングされた櫻林高校との合同練習の当日、それまで優都とともに前面に立っていろいろな調整をしてきていた雅哉は、行きの電車の中で京にでも察せるほど悩ましげな表情を浮かべていた。翠ヶ崎を出発してから、何度目かに優都が聞いた「本当に大丈夫?」の言葉に、雅哉は「大丈夫だけど」の枕詞のあとに、やっとひとつ溜息をついた。
「楽しみかって言われると、そうでもないわ。悪い、行く前にこんなこと言って」
「それはそうだろ、なにもなかったら辞めてないだろうし。いまさら言うことじゃないけど、無理するなよ」
「それは大丈夫なつもり。別に悪口言いたいわけじゃねえよ。光暉とか普通にいいやつだし」
 雅哉と優都の会話を、京の横で由岐も聞いていたようで、雅哉のほうをちらりと見ながら、由岐は「古賀先輩、気まずいだろうな」と呟いた。
「俺たちは今日は部外者だし、一日限りだから気楽だけどさ、古賀先輩はそういう気分ってわけにもいかないだろうし」
「古賀先輩ってなんで中学んとき部活辞めたの? 俺あんまよく知らないんだけど」
「レギュラー争いえげつなかったらしいよ。蹴落とした相手から逆恨みされるし、レギュラーになったらなったで、結果出さないと責められるし、みたいな」
「まじか……ゆっきーのとこもそういうのあった?」
「ある程度は。そこそこ成績あって、人数多いとこだと、どうしても多少はあると思う」
 声を抑えながら会話をする京と由岐の近くで、拓斗は自ら会話の輪に入ることもなく腕を組んでドア横のスペースに寄りかかっており、潮は京たちの会話を聞いているのかいないのか、吊革を両手で掴んで所在なさげに体重をかけていた。拓斗があまり他人や他人の会話に興味を示さず、口数も多くないのはいつものことである反面、潮が静かなのは珍しい。それがどんな場であれ、彼は基本的にはひとりでいるよりは他人のあいだにいることのほうを好む性格だ。ぼんやりと窓の外を眺める潮にふと覚えた違和感は、目的地の最寄り駅の名を繰り返すアナウンスに気を逸らされていつの間にか忘れてしまっていた。

「本日はお招きいただきありがとうございます、翠ヶ崎大附属高校弓道部です。いろいろと勉強させてください、どうぞよろしくお願いいたします」
 櫻林高校の弓道場に案内されたあと、優都は完璧な主将の顔で頭を下げ、それに続いて全員で挨拶をした。優都の半歩後ろで、雅哉はすこしだけ気まずそうに向こうの部員と顧問に視線をやっていた。試合の決勝戦で何度も顔を見たことのある櫻林高校の主将は、「こちらこそ」と切り出して優都に手を差し出した。
「都個人の優勝者が二人もいる部と練習ができるのを楽しみにしてました。よろしくな、森田」
「うん、よろしく、松原」
 優都と握手をしたあと、松原はその横の雅哉にも視線をやり、「久しぶり」と声をかけた。「おう」と短く答えた雅哉は、反応が硬いことを「なに緊張してんだよ」と松原にからかわれて多少表情を緩めていた。

 櫻林の一、二年生と翠ヶ崎の七人を合わせた合同練習は、準備運動を終えたあと、全体を四つのグループに分けて、その中でさらにいくつか立を組み、順に四つ矢を行う形式から始まった。グループをレベル別で組み分け、的中率の良し悪しで随時グループ間を移動させていく形式の練習は、櫻林では昔から定番であったようで、的前に立てない初心者以外の部員にとっては、練習の時間の大半はこの形式に費やされると聞いた。松原は最終的には「わからなかったら雅哉に聞いて」と練習の説明を締めくくった。
「同じくらいの実力になるように組み分けたいんだけど。雅哉、大体わかるだろ。決めて」
「森田と風間は一組でいいだろ。早川は一旦四組で様子見て――矢崎と京は三組かな。坂川は二組でもいいような気するけど、最初はとりあえず三で。俺も二か三入ればいいか」
「おまえは二でいいよ。なんなら上がって来いよ」
「努力するわ。ごめん森田、勝手に決めちゃったけどそれでいい?」
「うん、任せるよ。ありがとう」
 雅哉たちの指示に従ってグループに分かれ、ちらりと後ろに並ぶ四組の様子を窺うと、ひとりだけ知り合いがひとりもいない組に放り込まれた由岐が、不安そうな表情を隠せずにいるのが目についた。今日は櫻林も高等部のメンバーしかいないと聞いていたが、それでもざっと数えただけで部員の数は二学年だけで三十人近い。目の前で並んで弓を引いている一組のメンバーたちは軒並み全国区の実力者なのだと思うと、それだけでどこか現実感のない光景だった。
 道場の端では櫻林の顧問が腕を組んで行射を見ており、その横でマネージャーと思わしき生徒が記録を取っている。仏頂面で部員の射を見続ける顧問の視線のせいか、道場にはどこか張りつめた雰囲気が漂っている。時折低い声で射に指摘が入れられるたび、櫻林の部員が顧問に深く頭を下げて礼を言っている姿が印象的だった。
 拓斗は普段とは違う環境の中でも顔色ひとつ変えず平然と一巡目から皆中を叩きだしていたし、優都も、多少気を張ったような表情を見せてはいたものの、いつも通り整った射形で弓を引いていた。一組目の最後、松原が小気味いい音を立てて的を射貫いた。矢は的のほぼ中心を捉えていたけれど、本人はあまり納得のいく射ではなかったようで微妙な表情を浮かべていた。
「光暉、的当てやってんじゃねえよ」
 射位を退いた松原に向かって顧問が声を飛ばす。松原はその言葉は予期していたように短く返事をして、二組目に交代の指示を出した。隣にいた潮が、「なにが悪かったのか全然わかんねえんだけど」と呟いたのが聞こえた。
 二組目の番になると、顧問の叱責は徐々に声量も数も増してきて、ときおり苛立ちを含んだ怒鳴り声も飛んでくるようになっていた。翠ヶ崎の弓道部には、基本的に声を荒げるということをする人間がいない。顧問が練習内容に関与することがそもそもない上、優都は厳しい口調であっても静かに他人を諭す人間だし、雅哉も指示を通す以外で大声をあげる姿はまず見ない。的前に立っている雅哉は、京にもわかるくらい体勢が崩れていて、放った矢は大きく的を逸れて安土に刺さった。
「雅哉! 俺はそんな足踏み教えてねえぞ」
 顧問の声に、雅哉は一瞬びくりと肩を震わせて、「すみません」と声を張って頭を下げた。そのあとも雅哉は櫻林のメンバーと同じかそれ以上の勢いで怒られ続けていて、京たちが翠ヶ崎との雰囲気の違いに驚いていると、近くにいた櫻林の二年生が「びびらせてごめん」と声をかけてきた。
「古いおっさんだからさ。さすがに他校の一年怒鳴ったりはしないと思うから、それは安心して」
「すみません……いつもこんな厳しいんすか」
「俺らは慣れてるから。にしても、雅哉には当りが強い気もするけどな。大人げないからあのひと……」
 元同期のひとりなのだろう、雅哉のことを知っている口ぶりをそう言った彼は、「直ってねえぞ」と眉を顰める顧問の姿を見ながら、声を抑えて肩を竦めた。
 一組から四組までを二周ほど回したあと、松原がマネージャーから受け取った記録を手に、三、四組の方に近付いてきて、「早川くんってだれだっけ?」と由岐の名前を呼んだ。
「僕です」
「弓道高校からって言ってたのって早川くん?」
「はい、そうです」
「へえ、上手いな。上のグループ上がっていいよ。栄治、おまえ今日雑だぞ。一回下がれ」
 松原はその二人以外にも何組かの交代を指示したあと、今度は四組内の立をすこし組みかえ、二、三組間でも同様にメンバーの入れ替えを言い渡した。顧問は松原の横についてその様子を見ていて、ときどき口を開いてはその指示に修正や追加を加えていた。入れ替えが言い渡されているあいだ、櫻林のメンバーの中には名状しがたい緊張感が漂っていて、こころなしか息苦しくなる。
 京たちのグループに移動してきた由岐を、代わりに落とされた部員が眉を寄せてじっと見ている。由岐はその視線に気づいてか、居心地悪そうに身を竦めて立っていた。
「そうだな……坂川くんも上がって。代わりに――」
「啓太だろ。しょうもねえ弓引きやがって。下がれ」
 松原の指示を引き取って、顧問が冷たく宣告した声が道場に響く。潮は表情を変えないまま短く返事をして、松原と顧問のほうと、元居たグループのメンバーに軽く頭を下げ、雅哉のいる二組に移動していった。
「雅哉、次も同じ弓引いたらおまえも下げるぞ」
 顧問は雅哉にそう言い残して、松原の横を離れ、また道場の端へと戻っていった。一組と二組のあいだでは入れ替えはないようで、立のメンバーだけ何人か組み替えると、松原はマネージャーにノートを返し、二週目を始める指示を出し始めた。

「絶対ぼろくそ言われると思ってたけど、案の定だったわ」
 同じ流れを何周か繰り返して最初の休憩が言い渡されたときには、まださほど長い時間弓を引いたわけでもないのにかなり疲労が溜まっていた。櫻林のメンバーはそのまま自主練に移るものも多く、すこし遅れて翠ヶ崎のメンバーの元に戻って来た雅哉は、「使いたかったら的も巻藁も適当に使っていいって」と告げてから、わずかに顔色を翳らせて短い溜息をついた。
「大丈夫?」
「大丈夫、慣れてる。落とされなくてよかったわ」
「それは僕も。緊張するね、この形式」
 優都も途中からは何度か厳しい言葉をかけられつつも、なんとか最後まで一組に残り続け、雅哉の横でほっとしたように息をついていた。ここでの練習は、多人数の中で常に実力に明確な順位を付けられ続けているのと同じだ。顧問が特別に指示を出す以外は、的中数でほぼ機械的に入れ替えを決められる制度には、言い訳も弁明も通用しない。
「これでどこの組にいられるかで、レギュラー争いに組み込めるかとか、そういうの大体決まるから」
「ああ、なるほど……競争原理なんだな」
「ここは学校全体がそういう空気だよ。仲間ってよりも競争相手だし、周りとがんがん競争させて、勝ち続けたやつだけが上に行けるって感じ。強くはなるけどな」
 しんどいよ、と呟いた雅哉の声にはわかりやすく実感が込められていて、彼がこの部を抜ける決意をした理由はそれだけでも察せるような気がした。
「でも、やっぱり言ってもらえることは的確だなって思うし、部外者の身からしたらすごく勉強になるよ。――僕、ちょっと先生に相談してみたいことあるんだけど、だれか一緒に行く?」
「俺行きます。どっちかってと松原さんに話聞きたいんすけど」
「おまえらほんと怖いもんねえな……」
 立ち上がった優都と、それに続いた拓斗はそのまま櫻林の顧問と主将の元へ向かい、それを見ながら雅哉は感嘆するように呟いた。彼は、顧問に話を聞きに行った優都のことをしばらく見守っていたけれど、なにやら熱心に話し込んでいる姿を見て安心したように肩の力を抜いていた。優都は、今日はここ最近の中では調子が良さそうで、松原や拓斗ほどではないものの、同期のトップ選手たちとは十分渡り合えているように見えた。優都は顧問から話を聞いたあと別の選手に声をかけ、休憩が終わるころには彼の周りには先ほど一組で弓を引いていた選手が何人か集まっていた。櫻林の上位層と言えば、中学時代から名が知れていて、都内どころか全国でも通用する選手が何人もいる。優都も拓斗も、そういう環境に身を置くことだってできたはずなのに、彼らはそれを選ばずにいまここにいる。そのことに彼ら自身がなにか意味を感じているのだろうか、というのが、京の頭にもうっすらと浮かぶ疑問だった。

 一度目の休憩から二度目の休憩までのあいだ、拓斗は余裕で一組目に居場所を維持し続けつつ松原と的中数で競り合っており、その横では優都が、ぎりぎりとは言え大きく崩れることはない結果で同じ組にしがみついていた。潮は雅哉と同じ二組目に上がったあと、何度か顧問に厳しい口調で指摘をされつつも、彼はそれをかなり平然とした顔で受け止めて、結局京たちの組に戻ってくることはなかった。京自身も、同じ組の千尋と由岐も、部外者ゆえに多少大目に見られている自覚があったとはいえ、さほど大きな変動もなく練習をこなしている。
 顧問は、二組目までの部員にはひとりひとり頻繁に指摘や叱咤を投げるが、三組目以降の部員には、目に余ってひどい射でない限りはあまり声をかけてこなかった。そういう意味でも、雅哉が口にした櫻林の競争原理の雰囲気は実感として肌に刺さってくる。事実、三組目、四組目に長いこといるのであろう二年生は、上に行こうと休憩時間も弓を引き続け必死に練習している者と、そもそも上に行くことを諦めてしまっているような者とに二分されていた。後者の態度を一瞬露わにした部員に、顧問が吐き捨てるように「やる気がないなら辞めてくれ」と言ったとき、京はその言葉の冷たさに背筋を冷やしたものの、櫻林のメンバーがそれを言われた部員に対して恐ろしく無関心であることにも同じくらいぞくりとしたものを感じた。翠ヶ崎の部員の表情を伺うと、優都はわずかに眉をひそめていて、雅哉はそちらに視線を送らないよう俯いていた。由岐がどこか怯えるように身を竦めていた反面、拓斗は案の定興味のなさそうな顔で明後日の方向を向いている。意外にも、潮も彼とほとんど同じ表情をしていた。この雰囲気に、ひとがひとを見捨てることに、たじろぐところも感じるところもひとつもないといったような無表情だった。
 再び休憩が言い渡されたあと、潮は京たちのほうに寄ってくることもなく、まっすぐ的前に向かって、自ら自主練に入っていった。優都や拓斗、雅哉も休憩は短く切り上げて的に向かっていき、それを見ていた千尋が小さく「よくやるわ」と呟いたのが聞こえた。
「なんか、すごいですよね」と由岐がそれに答える。
「ゆっきーは行かないの? いつもわりと自主練するほうじゃん」
 京が由岐に問うと、由岐はうーん、と悩ましげに声をあげてから、「ちょっと怖くて」
と言った。
「風間はそんな感じしてたけど、優都先輩もうっしーも、あんなにがんがん厳しいこと言われてけろっとしてるのすごいなって思うんだよ。俺そういうの苦手でさ……」
 俺はあっちのグループほど言われてないのにな、と苦笑した由岐は、たしかに、自分ではないだれかが怒鳴られているときもすこし身を竦めるような仕草を見せている。そういう指導に耐えかねて空手を続けることを選べなかった彼が、この雰囲気をあまり素直に飲み込めないであろうことにはたしかに頷ける。
 射場に視線を戻すと、ちょうどいちばん顧問が立っているところに近い的に向かって雅哉が弓を引いていた。先ほどまでは自主練にはほとんど視線を送っていなかった顧問が、雅哉の射をしっかりと見据えているのがわかる。その視線に気付いてか、硬さの目立つ行射で雅哉が放った矢は、軌道を大きく逸らして、狙ったところよりも横の的に近いくらいの位置に突き刺さった。
「なんだそれは」
 顧問がそう口を開いたとき、今度は場の雰囲気が変わったのを察して、これはいつも通りの事態ではないのだということを悟る。射位の近くにいた櫻林のメンバーは一斉に顧問のほうを伺い、その言葉の向かう先にいる雅哉にも視線を集めた。顧問はそのまま、雅哉に対して彼の射の未熟さを言い並べ、「全部今日一度指摘したことじゃねえか、言われたことも直せねえのか」と声を荒げた。
「そんなんだから櫻林(うち)についてこれなかったんだろ。それとも、翠大附の練習はそんなに甘えのか」
 顧問が響く声で雅哉に放った言葉に、道場が静まり返った。いままでどう怒鳴られても言われるがままだった雅哉は、その言葉には眉を動かして顔をしかめたけれど、言い返す言葉が見つからないのか、あるいは言えないのか、唇を閉じたままだった。それでも、その言葉を肯定もしなかったし、「すみません」と頭を下げることもしなかった。雅哉のその態度に気を悪くしてか、「なんとか言え」と顧問が声を荒げたとき、さすがに止めようとしてか足を踏み出そうとした松原より先に、優都が二人の元にまっすぐ歩み寄って行った。
「翠ヶ崎(うち)の部員が、なにかご無礼をいたしましたか」
 申し訳ありません、と頭を下げた優都は、顔を上げたあとも顧問から目を逸らさなかった。雅哉がすこし驚いたような顔で優都を見ている。もうあなたの生徒ではないのだ、と言外に主張したその言葉は、あからさまな牽制だと思った。
「俺に偉そうな態度をとれるほど、自分が強いつもりか」
 声の矛先が自分に向いても、優都は顔色ひとつ変えずに姿勢を正して立っていて、短い言葉でそれを否定した。
「おまえもそうだろ。主将のくせに後輩に負け続けてて、そうやってすました面して、悔しいと思わないのか」
 その言葉には、優都よりも隣にいた雅哉のほうが眉をひそめた。あいだに割って入ろうかどうか悩むような仕草を見せている松原を京の横にいた千尋が目に留め、小声でなにかを言って彼を引き留めた。いくらかはなれたところでは、拓斗がふいと優都から眼を逸らした。
「――悔しいです」
 優都がそうはっきりと口にしたのを、だれもが初めて聞いた。そう思っていたことは知っていたし、穏やかそうに見えてこのひとがかなりの負けず嫌いであることを、もう四年も一緒にいれば京ですらよくわかっている。それでも、優都はいままで、拓斗の実力が自分より上にあることを認めてはいても、選手としてまったく対等なところで悔しいと言葉にすることはなかった。
「現状、おまえは光暉や風間と競い合えるところにはいないな。去年見たときはまだある程度有望だと思っていたんだが」
 辛辣に宣告されたその言葉に、だれもが息を呑んで優都の反応を窺っていた。松原はじっと優都に視線を送っている。拓斗はあえて見ようともしていないようだったけれど、耳を傾けているだろうことはわかる。
「それでも」
 優都の声はおどろくほどまっすぐ澄んでいた。彼は顧問から視線を外さないままその目を見上げ、迷いなく口を開いた。
「僕は、松原や――風間に、敵わなくたっていいとは思いません。先生にそんな義理がないのはわかっていますが、それでも、今日この場限りでも、ご指導いただきたいです」
 そう言い切って深く頭を下げた優都を見て、雅哉は泣きそうに顔を歪め、黙って優都の隣で頭を下げた。こういうとき、由岐が優都のことを怖いと言った理由がいくらかはわかるような気がした。彼は決して口が上手いわけでもないし、相手を言い負かすことが得意なわけでもないけれど、場を自分の味方につける能力には抜群に優れている。
「――おまえの部と部員に対して失礼な言い方をしたのは悪かった。休憩はあと五分で、練習に戻れ」
「はい。生意気なことを言ってすみませんでした。失礼します」
 顧問が踵を返して道場を離れていくのを、再び頭を下げて見送った優都は、そのあと京たちのもとに戻ってきて、すこし安堵したように息をついた。
「森田、悪いな。他校に対してあんな言うときないんだけど……」と松原が軽く頭を下げる。
「ううん、こっちこそ荒立てちゃってごめん。大丈夫かな」
「大丈夫だと思う。きつい言い方はするけど、完全に無茶苦茶なことはしないひとだから」
「ならいいんだけど。……古賀、大丈夫?」
 優都と一緒に戻って来た雅哉は、壁に寄りかかるように座り込んだまま俯いていた。心配そうに駆け寄った由岐が差し出した水筒を受け取って軽く礼を言うと、雅哉は覗き込んでくる優都と松原のほうに顔を向けて、「悪い」と低い声で言った。
「ごめん、森田。庇わせて。……なんも言えなかった」
「古賀が謝ることないだろ」
「別に、俺がなに言われんのも慣れてるつもりだったからよかったんだけど。……部のことまでああ言われて、すげえ悔しかったのに」
「おまえがそう思ってくれてるだけで僕はうれしいよ」
「――情けねえわ」
 吐き捨てるように言った雅哉は、大きく溜息をついて腕で顔を覆い、「顔洗ってくる」と立ち上がってその場を後にした。
「僕、ちょっとだけ古賀先輩の気持ちわかる気がします」
 雅哉のことをずっと気にかけていた様子の由岐が、おずおずと優都に向かって口を開く。
「中学のとき、監督とか先輩に怒鳴られるのすごい苦手で、言われてる内容とかよりも、怒られてるってことに足が竦んじゃって。いま思うと、僕が悪かったことも絶対あったと思うんですけど、なにが悪かったとか考える余裕もなくて。……いまでも情けないって思います。でも、僕もそれずっと引きずってるから――」
「……部員同士で先輩も後輩もなくひたすら競争させて、実力と能力でふるい落として、残ったやつのこともああやってがんがん叩いて、それでも潰れないやつは、そりゃ強いんだよ」
 雅哉が出ていった扉の方を眺めながら、松原が床に腰を下ろし、ゆっくりと口を開いた。優都は由岐と松原を交互に見て、小さく頷く。
「俺は他人が自分のことどう思うとかあんま興味ねえし、怒鳴られても別に平気だからわりとうまくやってるけど、雅哉は元から、他人を蹴落として自分が上行くとか苦手なんだろうし、そうやって上まで来たとこで、ちょっと調子崩したら先生にも、蹴落とした側のやつらにも叩かれんの、無理だったんだろうなとは思う」
「……潰れなかった選手が強いのはわかるけど、そこで潰された選手が一概に能力が低いとも僕には思えないな」
「それはそうだと思うよ、俺も。雅哉が弱かったとも思わねえし。だけど、なにもかも、ってのも無理だろ。――俺、おまえのことはちょっとだけ羨ましいよ。部員に慕われてて、なんかあったときさっきみたいに一瞬も迷わないで庇いに行けて。かっこいいと思った」
「ありがとう。僕は中学のときから、松原の圧倒的な強さに憧れてたよ。おまえみたいになりたいとは何度も思った」
 優都は微笑んでその言葉を受け止めてから、松原からはすこし逸れたところに目線を向けた。松原はそのことには気付いていないようだった。
「どんなかたちであっても、なにかに潰されたひとは、そのことを僕らの想像よりずっと長く引きずるんだ。――僕はそれを否定してしまうのは、いやだな」
 京だけが追いかけた優都の目線の先には、一切の表情を消したままただぼんやりと立っている京の親友の姿があった。思えば、彼は今日この練習が始まってから、休憩時間であってもほとんど口を開かず、いつもの軽口も剽軽な笑顔もまったく鳴りを潜めてしまっている。潮も優都の視線には気付いていないようで、壁に寄りかかったままぼんやりとどこかを眺めていた。優都もすぐに彼から視線を外し、松原が休憩終了の合図をかけようと腰を上げるのを見上げていた。

 合同練習の全予定は、その後は多少のぎこちなさを残しつつも大きな問題も起きずに終了し、練習が終わったあと、優都や拓斗は中学時代からお互い顔と名前は見知っていても話したことはないような選手たちと言葉を交わしていた。潮は、いつもならそういう交流の場には真っ先に首を突っ込んでいくはずなのに、今日は京や由岐と一緒におとなしくそれを横目に見ていた。途中、優都が、潮が好きだと言っていた選手の前に彼を呼んだときはいつもの陽気でテンションの高い性格を取り繕ってはいたが、だれかを相手にしていないときはやはり感情の読み取りづらい表情を浮かべて、ぼんやりと所在なくどこかを眺めているばかりだ。練習のあいだも、特別調子が悪そうであったり集中を欠いている様子でもなかったけれど、どことなく様子がおかしいことは京以外も察してはいるようで、潮が場を離れたとき、由岐が小さく眉を寄せて、「うっしー、なんか元気ないな」と呟いた。
「いつもがありすぎるって説もあるけど。でもたしかに静かよな」
「京はなんかあったとか聞いてねえの?」
「ない。つーか、あいつはそういうのあっても言わない」
 無駄なことはよく喋るけど、と付け加えると、由岐は「なるほど……」と言ってまた潮を見やる。潮は優都の隣で、櫻林の二年生相手にくるくると表情を変えながら派手な身振り手振りを繰り返して笑っている。
 挨拶も終わって解散をしたあと、トイレに寄るから先に行っててくれと言った潮に京が便乗したために、二人で他の部員たちから遅れて歩いているあいだも、潮はいつにもまして口数が少なかった。京が話しかければそれなりに返答はするけれど、どの話題もさほど盛り上がらず尻すぼみになってしまう。潮は、自然にしているのか意図的なのかはわからないが、どんなくだらない話でも中途半端に途切れさせずに落としどころを見つけるのがうまい。それを知っているからこそ、不自然に途絶える会話と、言葉のない沈黙がいつも以上に重たかった。潮はそれを取り繕おうともしておらず、ただ校舎裏の砂利道で靴底と硬い石が鳴らす音を聞きながら歩いている。傾きだした日が建物の陰からちょうど目の高さで光り、京もすこし顔を俯けた。再び声をかけるか、あるいは皆のところに戻るまでこのまま放っておくかを京が悩みだしたとき、潮がふいに足を止めた。「うーやん?」と京が言葉を発するよりさきに、「潮?」と知らない声が彼の名前を呼ぶ。潮は、たったいま彼の隣をすれ違おうとした、櫻林の制服を着た男子生徒の顔を返事もせずにただまじまじと見ていた。
「潮だよな? 俺のこと覚えてる?」
「……覚えてるよ。ジュンちゃんだろ」
 旧友との再会であろう状況に、潮はにこりともせず、目を伏せて彼の名前を呼んだものの、そこからなにか言葉を繋げることもなしに再び歩き出そうとした。あからさまに逃げるような態度に、ジュンちゃんは一瞬眉をひそめたけれど、「潮」とさらに強い口調でまたその名前を口にした。
「サックス辞めたってほんとなの」
 彼は、その一言で潮を引き留めた。潮は、振り返らないまま「そうだよ」と返した。
「なんで」と問うジュンちゃんの声は、初対面の京ですら背筋が凍るほど冷え切っていた。潮が、他人からこれほどの敵意を向けられているさまを、京は見たことがなかった。
「俺がいまどうしてたって俺の勝手だし、ジュンちゃんになんか関係ある?」
 潮の口から出た声にも、この四年間で聞いたこともないくらい温度がなかった。
「あのとき、全部勝手にめちゃくちゃにしたくせに、まともな理由も言わねえほうがどうかしてるだろ」
 挨拶も思い出話もなしに始まった口論は、京にはほとんどなにもわからない内容だった。声をかけることもできず京は自分の所在を失っていたが、潮をひとり置いてこの場を離れることもできなかった。
「あのとき吹けなくなったのも、いま、吹いてねえのも、ジュンちゃんたちのせいじゃねえけど、――だから、おまえらがどうとか関係なくて、もう吹かないって決めたから」
「理由になってねえよ。俺らが関係ないって言うなら、なんでおまえはあのとき勝手に自滅して、俺らがずっと練習してきた曲を台無しにして、そのままなんも言わねえで吹部からも逃げて、そんでいつの間にか音楽まで辞めてんの? わけわかんねえよ」
 ジュンちゃんの言葉が、潮のことをひどく追い詰めているのが傍目にもわかった。潮は、彼の問いには答えなかったけれど、その非難を否定もしなかった。
「ずっと、台に乗るのも、目立つソロも全部おまえで、おまえの邪魔しねえように吹けって言われ続けてて、でもおまえまじで上手かったから仕方ねえって納得してたつもりだったのに、――でかいコンクールで、みんなめっちゃ練習した曲で、おまえが全部ダメにしたんじゃん」
 ジュンちゃんの声にも、押し殺しきれない感情が震えとなって浮かび上がっていた。潮はそちらを向かなかった。
「おまえにとっては、必死に練習したっておまえの視界にも入んねえような奴らだったかもしんねえけど。俺たちも練習してたんだよ。いい曲にしたかったんだよ。……なあ潮、才能もセンスもあって、なんでおまえが、音楽から逃げたの」
 潮は、肩に担いだ弓を強く握った。名前を呼んで会話を遮ろうかどうか京が悩むあいだに、潮は一度口を開き、「才能か」とだけ短く呟いて唇を噛み、諦めたように息を吐いて喉を震わせた。
「俺には、才能なんてなかったよ。あのまま続けてても、なんにもなれねえ凡人だよ」
 静かな声だった。言葉も声色も、潮の表情も、ひとつの装飾も瓦解ももたず、ただその場に投げ出されただけだった。ジュンちゃんが、面食らったように言葉を失ったのが京にもわかった。潮は、目の前にいるジュンちゃんのことも、隣にいる京のことも見ていなかった。
「――宝島だったな。櫻林(うち)の前の学校の自由曲。すごいサックス吹く子がいてさ。気付かなかった? 上手いとかいう話じゃなくて、こういうの、こういう音で吹けるのを天才って呼ぶんだなって感じの。それ聴いたらもう、自分の音なんて聴けたもんじゃなくて。俺がどんだけやっても、あれには届かねえのわかってて、見ねえふりしてた自分の底があのとき見えて、それでもまだ頑張ろうって思えなかった」
 潮が、自分の内側を、いちばん深いところを言葉にするのを初めて聞いた。それは彼がいつでも、京にさえも見せようとしてこなかった場所だ。内側に抱くその感情を、いつも見せる剽軽な笑顔の後ろに隠してきたなにかを、潮が吐き出すことすら良しとしないくらいに忌んでいることは知っていた。それくらいは、隣でずっと見ていればわかる。けれど、その中身をここに至るまで知らなかった。聞き出そうとすることができていなかった。
「そんなことで、全部諦めたの」
 冷静な潮の声とは対称に、ジュンちゃんの声はやはりあからさまに揺れていた。怒りなのか動揺なのかは読み取れなかったものの、たしかに、ままならない感情が浮かぶ声だった。
「そんなこと言ったら、おまえよりずっとへたくそで、ずっと、最初から最後まで一度だっておまえに敵わなくって、おまえがいなくなったあともずっと、おまえのほうが上手かったって比べられ続けてた俺らの立場ってなに。あんだけのものもってて、そんなに簡単に捨てられるなら、おまえの能力も環境も、ぜんぶ俺が欲しいよ」
 潮はその問いに答えなかった。ただ、ようやく顔を上げてジュンちゃんの方を見た。今度はジュンちゃんが俯いていた。
「なんにもなれねえからって、あんなガキの頃に、あんだけもってたもの全部諦めて、辞めるとか決めんのわかんねえよ。そんなもん、なれねえ奴のがずっと多くて、それでも、続けてるだろ」
「ジュンちゃん」
 絞り出したジュンちゃんの言葉を受けて、潮は静かに彼の名前を呼んだ。ジュンちゃんは眉を寄せて顔を上げ、潮と視線を合わせた。ジュンちゃんの背後から差し込む西日が、潮の顔を逆光に陰らせる。流れてきた薄い雲が一瞬だけその光を遮ったとき、潮は、彼と再会して初めて、名前のつけられる表情を浮かべていた。薄く笑っていた。
「俺は、そのなにかになりたかったんだよ。――なれると思ってたんだよ」
 ごめん、と言った潮に、ジュンちゃんはもうそれ以上なにも言葉を返さず、ただ黙って首を横に振った。二人はそれ以上言葉を交わすことを諦めたように、視線を合わせもせず、別れの挨拶もせずに踵を返し、歩き出した。ジュンちゃんが背負った赤い、おそらく楽器のケースが、潮の視線をわずかばかり引いたのが見えたけれど、潮はやはり表情を消していて、そこに込められた感情までは京には読み取れなかった。
 ジュンちゃんの足音が聞こえなくなるところまで、潮は後を追う京を振り返りもせず無言で歩き続けた。京がそろそろ声をかけようと口を開きかけたのと同時、彼はふと歩みを止めて、低い声で「ごめん」と呟いた。
「意味わかんねえ喧嘩に付き合わせたわ、ごめんなけーくん。後でなんか奢るよ」
 その、虚勢に満ちたへたくそな笑顔とともに向けられた言葉が、どうしても彼の一番深いところに京が触れていくことを拒絶していた。彼が、そういうことに関して相当に意固地であることも知っている。自分自身で引いた線より内側に、他人を入れないということに対して。それは、意志や決意というよりは、恐怖に近いものに起因しているのかもしれないと思った。潮の声は隠しきれないほど震えていた。
「……大丈夫?」
 ほとんど会話もないまま校門を抜け、駅に近いバス停のところまで足を進めたところで、潮は歩みを止めて閑散としたそのバス停の椅子に腰を下ろした。真っ青な顔色で俯いてしまった潮は、「大丈夫」とあからさまな嘘をついたあとにゆっくりと息を吐いた。
「ごめん、先に駅戻ってさ、先輩たちに、帰っててくださいって伝えて。お願い」
「でも、なんか具合とか悪いなら――」
「ごめん、けーくん。お願いだから」
 懇願するその声はやはり大きく揺れていて、京はそれ以上なにも言えなかった。放っておいて良いとも、そうするべきとも思えなかったけれど、彼に手を差し出す方法がわからなかった。潮を苦しめているものの正体も、その意味も質量も、京が知りうるものではなかった。
「荷物貸して。俺、駅で待ってるから。落ち着いたら一緒に帰ろ」
 それだけ声をかけるのが精一杯で、潮も京が自分の荷物を引き受けていく手は拒まなかった。ごめん、とも、ありがとう、とも言わず、ただ表情を隠して背を丸めているだけだった。

 小走りで駅に戻る道の途中、駅から逆向きに歩いてくる優都と出くわした。京たちがなかなか合流しないことを心配して、櫻林へ戻ろうとしていたのだろう彼は、京の姿を見るなり焦ったように京の名前を呼んで息をついた。
「なにしてたんだ、心配したよ。……潮は?」
「すみません、あの、うーやんが、なんかちょっといろいろあったみたいで」
 帰路での一部始終を優都に話し出すと、彼は皆まで聞かないうちに察するものがあったのか、京が途中で言いよどんだところで「なるほど」と頷いた。
「潮は、京にも話してないんだっけ」
「小学校のときのはなしっすか? 聞いてないですよ」
 京の答えに、優都は「そうか……」と呟いて、どう言おうか悩むように視線を迷わせた。潮とは、中学一年で同じクラスになって同じ部に入って以来、おそらく互いにだれよりも一緒にいるし、セットで数えられることも多いくらいだ。潮は人懐こく陽気で悩みのなさそうな見た目の印象に反して、深く付き合う相手はあまり多くない。彼の側から線を引くのだ。そして、その線の存在に気付かせないように相手の目を逸らしながら、そこを踏み越えないし踏み越えさせない。
「――うーやんって、櫻林の出身なんですか」
 それを、優都に聞くのは卑怯かもしれないと思ったけれど、純粋な疑問と言うよりは答え合わせだった。先ほどのジュンちゃんとの会話から大体察することのできたその事実は、合同練習が決まってからこの方の潮の態度とも整合する。京の問いに、優都は存外すんなりと「そうだよ」と答えた。
「古賀先輩ってそのこと知ってるんすか。同じ小学校だったってことですよね」
「僕も聞いたことないけど、知らないんじゃないかな。学年もクラブも違ったら、小学校の先輩後輩なんてあんまり接点ないだろ」
 優都の言葉には、実感のこもった同意を返した。たしかに、京にとっても、小学校時代の先輩と言われて名前と顔がきちんと思い浮かぶのは、同じバスケクラブに所属していた数人の面々のみだ。「噂くらいは聞いてたかもしれないけどね」と付け加えた優都の言葉が、なにより饒舌に、潮が京には話さないその時期のことを彼が丸ごと知っていることを意味していた。
「優都先輩は、うーやんのその頃のこと知ってるんですよね」
「うん。もちろん直接知ってたわけではないけど、部に入ったばかりのときに聞いたよ」
 その線があることに気付いているだけでも、他の友人たちよりは京のほうが潮に近いところにいる。そのことに自覚はあった。けれど、それ以上に、潮にとっては優都があからさまに特別だ。口癖のように世界一尊敬すると繰り返しているのは、きっとさほど大げさな表現でもなくて、潮がその線の内側に招き入れたのは、京の知っている限りではこの先輩だけだ。
「距離を置いてる、とかいうのとはまた別なんだと思うけど」
「それは、大丈夫です。わかってるつもりです」
 見せたくないなにかがあるとしても、潮はわりと喜怒哀楽も機嫌の良し悪しも態度に出やすいし、京の前ではそれをあまり取り繕わない。人前でへらへら笑って頭の悪そうな言動をしている以外の顔も知っているし、無理をしていればある程度はわかる自信もある。弱音も聞くし、八つ当たりもされるし、本心からの吐露も何度も聞いてきた。
「いまさら、あいつに信頼されてない、とかは思わないです」
 優都は京の言葉にすこしだけ目を丸くしてから、すぐに微笑んで、「そうか」と目を伏せた。
「他人に言いたくないこととか、知ってほしくないこととか、あっていいと思うし、そういうの全部知ってないと本当の友だちじゃないとかは思わないから。――言いたくないことを言わなくていいし、聞かれなくてすむ相手ってのも、いていいかなって思うんです」
「――京は優しいな」
 優都が首を傾げて呟いた言葉を、京は声にしないまま口の中だけで反芻した。その形容が腑に落ちていない様子の京に気付いてか、優都は苦笑してまた言葉を探した。
「自分にどうしてほしいかより、相手がどうしてほしいかを、おまえはいつも先に考えるな、と思って」
「……そうですか? 俺、別にそんな性格良くもないですけど」
「京が気付いていなくても、多分潮は気付いてるよ。だから、あいつは京といるのが心地いいんだろうな」
 優都先輩こそ、と言いかけた言葉を飲み込んだ。彼の他人の感情への献身を優しさと形容することそのものは、あながち間違いでもないと思う。けれど、それを口に出そうとした途端、名状しがたい違和感が声帯の手前で言葉をせき止めた。優都は、決して自ら相手の内側に踏み込んでいくわけではない。それでも、彼と話をしているうちに、どうしても彼を自分の内側に招き入れたくなる欲求にかられるのは、果たして単に優しさと名付けてよいだけのものなのだろうか。
 告解、という言葉が浮かんだ。潮が、優都にできて京にできないのはそれだ。彼は潮にとって、ほとんど神様と同じ場所にいる。
「潮のこと、迎えに行ってくる。他のメンバーは先に戻らせたけど――」
「待ってます。優都先輩も、荷物預かりますよ」
「ありがとう。助かるよ」
 一緒に行きます、とは言えなかった。それでも、潮に待ってると伝えた言葉は守りたかった。それを拒まれなかったことは事実だ。彼の引いた線を無遠慮に踏み越えることを友情と取り違えることはしたくなかったけれど、許されるぎりぎりのところまでは歩み寄りたいと思った。優都は首を傾げて微笑んで、肩から降ろした弓と鞄を京に預け、早足で駅の前の道路をバス停に向かって歩いて行った。

 二人が帰ってくるまでにどれくらいかかったかはきちんと把握していないが、それなりの長さの会話が交わせるくらいの時間はあっただろう。夕焼けも陰り出し、由岐から届いた「なにかあったの?」というメールにどう返事をしたものか悩みつつ、何度かやり取りを繰り返したところで、優都と潮は並んで駅に戻って来た。潮はやはり俯いていて、京が「おかえり」と声をかけると泣きそうに顔を歪め、「ごめん」とだけ言って京から荷物を受け取った。
 そのあと三人のあいだにほとんど会話もないまま翠ヶ崎に戻り、弓道場で先に帰っていた四人と合流したときには、潮は「迷惑かけてすみません」と謝りつつもいつもの調子で笑っていて、雅哉や由岐に理由を問われれば、「ちょっと途中で腹痛くなっちゃって、でももう全然平気っす」と明るい声で答えていた。
 短いミーティングを終えて解散となったあと、潮は京と二人で駅までの道を歩いているあいだ、またすこし前までのようにほとんど表情のない顔で宙を眺めていた。日が暮れるといくぶん肌寒い秋の夜は、車の走り去る音にも、他の学生がたわいもない話をしながら歩き去る音にも、歩道沿いの店の賑わいにも満ちていたけれど、潮の隣だけがひどく静かだった。
「大丈夫?」
 京がそう問うと、潮はゆっくりと振り向き、「おう」と言って肩を竦めた。
「ごめんな、いろいろ迷惑かけて。もう大体平気」
 そう続けた潮は、よく人前でしているように表情を緩めておどけたような笑みを浮かべて見せた。街灯が横から照らすその笑顔は、京に言わせれば意識して作っているにしてもあまりに下手くそで、潮に一歩近づくなり京はその頬を右手で抓った。
「いって! なにすんだよけーくん、不細工んなるからやめて」
「元から大した顔じゃねえだろ」
「え、待ってひどくね。そりゃ自覚はあるけど。あまりにひどくね。そういうの黙っといてやるのが友情だと俺思うぜ」
 本気の抗議を始めた潮から手を離すと、潮はひとつ溜息をついた。軽口は回るくせに笑うことだけがうまくできていない彼は、再び表情を消すとどこか疲れたような顔色をしていた。
「大丈夫?」
 先ほどと同じ問いを投げた京に、潮は今度は返事をしなかった。しばらく黙りこんだあと、彼はようやく、「よくわかんねえわ」と言った。
「全然昔のこといまだにくっそ引きずってる自分に気付いて、情けねえやら未練がましいのがやんなるやらで、久々にだいぶ落ちてる」
 そう自嘲したあと、彼は今度はわかりやすく嘆息した。歩みが遅くなる潮に歩調を合わせる。
「まじで、いつまでうだうだ言ってんだって感じだけどな」
「わかんねえけどさ。そんだけ引きずるってことは、おまえにとってでかいもんだったんだろ。簡単に片が付くもんじゃないのも当然なんじゃないの」
「ありがと。けーくんまじ優しいよな。今日もめっちゃ振り回したのに」
「別に。つーか、おまえがわりと情緒不安定なのいまさらじゃん」
 人前では悩みなどなさそうにいつも機嫌よく笑っている人間ほど、本質がそうではないというのはありきたりな二面性だし、潮のこともその通り一遍の解釈で片付けてしまうことは簡単だ。けれど、四年も隣にいれば、友人の生き方をそれだけで切って捨ててしまうことに多少の抵抗があるのも当然だとは思う。潮は、へらへらと笑いながら常になにかに怯えて生きているような男だ。その対象がなにであるのかも、大体はわかる。
「別に、言いたくないこと聞く気ないけど、言ったら嫌われるとか思ってんなら、うーやんがめんどくせえのは俺知ってるからいまさら平気だよ」
 潮は、きっと、認められないことをなによりも恐れている。あるコミュニティに居ることや、そこでなんらかの立ち位置を得ることや、自分が期待される役割を果たすことについて。道化を演じるのはそういった意味ではわかりやすい選択ではあると思う。ムードメイカーであるというのは、簡単ではないが集団においてはかなり強力な存在意義だ。
 京の言葉を聞いて、潮はまたすこし表情を歪め、「ごめん」とだけ呟いた。駅の構内につながる階段の前で立ち止まった潮は、しばらくなにを言うべきか悩んだように自分の靴の爪先を眺めたあと、「けーくん」と京の名前を呼んだ。
「……全然家帰りたくないんだけど、付き合ってくれたりする?」
 いまだにそんなことでさえどこか恐る恐る問うてくる潮に、「いいよ」と即答すると、彼はほっとしたように息を吐いた。そのとき浮かべた、縋るように不安げな微笑は、きっと潮の引いた線の内側にいままでずっとあったものだろうと思う。

「うーやんって櫻林出身だったんだな」
 駅前のファミレスでドリンクバーとともにテーブルを陣取り、空きっ腹にコーラを流し込みながら向かいの潮に問うと、潮は何度か瞬きをして、「さすがにわかる?」と聞き返してきた。
「さっき優都先輩に確認したけど」
「なるほど。そうだよ。まあ、最後の一年完全に不登校だったから追い出されたんだけど」
「そっから翠ヶ崎受かんの普通にすげえな」
「学校行かねえで一日中塾入り浸ってたしな」
 やることなくてバカみたいに勉強してたわ、と笑った潮は、運ばれてきたドリアをスプーンの先で何度かつついた。
「――音楽やってて。ちっちゃい頃からずっと。小学校のときは吹奏楽してて、櫻林の吹奏楽部って小中高全部くっそ強いんだけど、俺はまあ結構吹けるほうでさ」
 ジュンちゃんとはそこで一緒で、同じ楽器吹いてた、と付け加えて、潮は一度手に持ったスプーンを置き直す。ジュンちゃんとの会話からある程度は察することができたその事実を、潮の口から聞くのは初めてだった。潮が、音楽を聴くのが好きなことは基本的に周知の事実だ。高そうなヘッドフォンを首にかけているところもよく見ていたし、いつも持っている音楽プレイヤーに入れられている曲数が常人の比じゃないことも知っていた。けれど、その趣味に背景があることを想像したことはなかった。潮が、おそらく、全力でひた隠しにしていたのだ。
「合同練習とかでわかったと思うんだけど、あの学校って、すげえ実力主義っていうか、なんつーか、使えねえやつとか潰れたやつはどんどん置いてって、付いてこれたやつらだけががっつり結果残すみたいな、そういう風潮あるんだよ」
「ああ……松原さんも古賀先輩もそんなこと言ってた」
「だろ。――俺、小六の四月のコンクールで、いちばん目立つソロで、大失敗して。……ジュンちゃんが言うとおり自分勝手な理由だったんだけどさ、立ち直れなくて。そのまま戻れなくなって、学校も行けなくなって、楽器も吹けなくなって、もう全部やり直したいって思って中学入ったんだけど――なんか結局、逃げただけだなってのはいまでも思う。ジュンちゃんたちに、まじで申し訳ねえことしたなってのも、考えるたび思うよ」
 なんも言ってなくてごめん、と潮はまた謝って、誤魔化すように左手のスプーンを口に運んだ。京もそれに倣うように同じドリアを一口飲み込む。
「でも、うーやんは、どうでもいい理由で他人に迷惑かけて、逃げて、平気な顔して開き直ったりはしないだろ。おまえにとって、どうでもよくないことがあったんだろ」
 それは、この四年間潮の隣にいて感じた本心で、それをそのまま言葉にすると潮はなにかを堪えるように言葉を詰まらせ、それから、上擦った声で「うん」とだけ答えた。それ以上はなにも喋らなかったし、京自身も聞き出すつもりはなかった。言えないことがあってもいいと思う。それを無理やり引き出すことは求められていないとも思った。
「ってか、楽器上手かったとか、うーやんのくせになんかかっこいいな。サックスってあれだろ、あの、こういう形の金管楽器」
「けーくんそれサックス吹きの前で言ったら殺されるやつだぜ。サックスは木管楽器」
「え、うそだろ。めっちゃ金色じゃん。あれ木でできてんの?」
「や、全然金属だけど。音の出し方で決まるからな。フルートも木管だぜ」
「えっ、まじで……わりと今月一びびったわ」
「まだ今月始まって三日じゃね? 驚きが安いわ」
 その話題をたわいもないやりとりに落とし込みながら皿を空にして、再びドリンクバーのグラスに取り掛かり始める。部活のあと、寄り道をしてから家に帰るにしても遅い時間になり始めてきたことにはお互い気付いていたものの、いまはそのことから目を背けたかった。
「優都先輩には話してたの?」
「中学入ったときにな。――先輩はすげえ真面目に弓道やってんのに、俺は自分のやってきたことから逃げただけだって負い目が、どうしてもあって」
「あ、おまえそれで弓道部入んのちょっと悩んでたの? やっとわかったわ」
「よく覚えてんな。まあそんな感じ。俺まじであの頃から先輩には一生頭上がんねえからな」
 当時、優都と潮のあいだにどのようなやり取りがあったのかは知らない。けれど、そのときから、潮の中で優都という存在がが特権的な立ち位置についたことだけは間違いないだろう。彼は、他人には窺うことすらできない、京ですらすべては知らない潮の線の向こう側に、ただひとり身体ごと招かれたひとだ。それを特別羨ましいと思うわけではないし、優都にそういう性質があるというのは、言われてみれば納得できるようにも感じてはいる。それは、彼であればどんな言葉でも、感情でも、ひとつひとつおそろかにせず真摯に受け止めて、能う限りその思いに寄り添った言葉を返してくれるという信頼だ。
「うーやんにとって、優都先輩って、なに」
 京のその問いに、潮はいっとき目を丸くして、すこし黙り込んだ。いつものようなふざけた答えが返ってくるかと思いきや、顔を上げた潮の表情はひどく穏やかだった。
「正しいひと」
 そう言った潮の声色を、いままで聞いたことがなかった。正しい、という言葉の意味を考える。正しいひとを必要とする潮が、間違っていると思うものはどこにあるのだろうか。逃げてきた、と言ったことだろうか。それとも。なにを間違っていると思いながら、ここまで来たのだろうか。
「優都先輩なら、絶対正しいの?」
「絶対正しいことなんて、ないじゃん。そんなのはわかってる」
「じゃあ、」
「だけど、いろんなもの見えてて、努力も続けられて、たくさん考えて、あのひとが出した答えより信頼できるもの、いまないから。先輩が正しいって言ってくれて、許してくれたことに、信じてくれてることに、応えられるようになりたい」
 潮の、ここ数年の正しさの規範は、いつでも優都にあったのだとその言葉から実感する。信じるべきものは、自分の内側に求めるよりも他人に求めたほうが楽だ。
「なにかに本気になったら、真摯になればなるほど、――俺らみたいな凡人は、絶対どっかで、努力じゃどうにもなんねえものがあることに気付くんだけどさ。……それでも、それをわかってても、真摯でいることを諦めないっていうのは、すごいことだと思うし、俺にはできなかったから、そういう意味で、俺はあのひとがだれよりもすごいひとだって信じてるんだよ」
 その、熱のこもった言葉に、潮が抱えてきたものが丸ごと含まれているのだろうと思った。言葉だけでは仔細が読み取れないほどに、彼の中心に癒着してしまったその苦しみとともに、この男は毎日バカみたいに笑って生きている。それだけで充分、と思ったことは、京には口に出せなかった。
「優都先輩みたいに生きたいってこと?」
「俺にできる気はしねえけどな。でも、それが正しいんだとは思っていたいよ」
 潮はそう言って、小さく首を傾げたまま微笑んだ。その仕草が、優都がいつもする笑い方によく似ていたことに、潮は気付いているだろうか。それを指摘しようかどうかすこしだけ迷ったけれど、言わないでおくことに決めて、グラスに半分ほど残ったコーラを一息で飲み干した。

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東堂冴

こぐま座アルファ星

カクヨムで連載中の長編小説『こぐま座アルファ星』のまとめ
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