Eine kleine Nachtmusik

一時間も前からベッドに横になっている彼は、ひどく疲れたような顔で枕に頭を埋めてはいるものの、眠りにつくことはできないようで何度も目を開いては、そのたびに私の姿を探していた。本を読むために点けていた枕元の淡いライトは、いつもなら彼が眠るのを邪魔しない。「ごめんね、眩しい?」と聞けば、渉くんは少し低い声で「大丈夫」とだけ答えた。
「寝れないの?」
 読んでいた本を閉じて問えば、彼は浅く頷いたのち、「薬を飲んでくる」と言って起き上がった。ここのところ仕事が立て込んでいて、ろくに家に帰ることも出来ていなかった彼が、当然満足に眠れているはずもなかった。眠れない、と彼が訴えるのは珍しいことではなかったけれど、ふらふらとリビングに向かう後姿はいつにないほど頼りなかった。背は高いけれど、それほど体格がいいわけではない渉くんは、最近またすこし痩せたようにも思う。才能と名のついたギフトを生まれながらにして与えられた人生を、彼は当たり前のように消化して生きていくことはできない。彼の肩には、私には見ることも触ることもできない重たいものがいつも圧し掛かっていて、けれどそれを捨てて生きることだけは決してできない、坂川渉という天才はそういう不器用なひとだ。
 リビングから戻ってきた彼は、ベッドに上がるなりぐったりと布団に体を沈めた。「お疲れさま」と声をかけると、言葉にならない声が返って来た。自分の抱えるものの数と重さに押しつぶされそうになっている彼の姿を見るとき、私はときおり、自らこの世を去った彼の兄のことを思い出す。その手に、音楽とその才能以外のものをなにひとつ持たないひとだった。守るべきものも、愛するものも、矜持も責任も、なにもかも必要ないかのように身一つで世界を渡り歩き、ただあの美しい音楽のためだけに生きてその才能に殉じた、あのひともきっと、生きる道はひとつしか知らなかった。彼らはいつでも少しも似ていない兄弟だったけれど、昔から、そういうところだけはそっくりだと思っていたのだ。どれだけ苦しくても、それがいずれ自分の呼吸を止めることを知っていても、それ以外の道を選ぶことができないところが、そう生まれついたことを引き受けて生きていこうとしてしまうところが。
「渉くん」
 ようやく薬が効いてきたのか、少しうつらうつらし始めた彼の名前を呼んだ。彼はぼんやりと瞼を開いて私に視線を合わせ、しかしすぐに俯いた。髪を梳くように頭を撫でると、体の大きな彼は縮こまるようにして私の肩に身を預けてくる。弟であるわりに、甘えるのは苦手なひとだ。夢現の間でなければ、ひとに寄りかかることすらためらうほどに。決して強くなんかはないくせに、弱いままでいることも許されなかったこのひとが、こうやってだれかの体温を無意識に求めてくる姿は、愛しくて、悲しい。
「渉くんは、洋くんが亡くなって、さみしい?」
 ずっと聞けずにいたことを、いまここで問うのは狡いだろうか。兄という名の彼の神さまは、それでも私たちにとってはひとりの人間で、どうしようもなく孤独で強く、ただひたすらに美しいひとつの存在だった。洋くんの音楽は美しくて、特別で、唯一で、それが渉くんのような人間にとって、神さまに為り得たものであったという事実は、私にだってわかる。そのことを哀れだとは思えない。たしかに、私たちには与えられなかったものを持って生まれて来て、それを捨てることすら許されずに生きていくしかない彼らのような人間が、そうあるために必要なものがあるとしたら、きっとそれだって私たちには決して触れることのできないなにかなのかもしれない。それでも、私がいま渉くんに触れていることも、彼の兄が肉体を持ってこの世界で二十八年間を生き抜いたことも、同じくらい正しい。
「わからないんだ」
 絞り出すように、渉くんは呟いた。手が震えていた。広いてのひらにそっと触れると、彼の指が私に縋る。わからない、と彼はもう一度言った。それは恐ろしいことなのだろうと私は思う。彼にとっての兄という存在を、私は彼以上に知ることは決してできない。それは当たり前のことであると同時に、どうしようもない真実だった。
「でも、大切なひとだったでしょう。渉くんにとって」
「そうだと、思う」
「失いたくは、なかったでしょう」
「——そうなのかも、しれない」
 神さまであろうとなかろうと、洋くんが渉くんの兄であったことに変わりはなくて、彼が、また生身の存在としてこの世界で、渉くんのすぐ近くで呼吸をしていたことも事実そのものだ。そんなことは、この二人を知っていただれもかれもがわかることだというのに、ただ、渉くんだけがわからないと言う。自分は弱い人間だということを知っている彼の、悲しいまでのこの叫びの意味を、私たちが本当のところで理解することはできないのかもしれない。それでも彼は、さみしいと吐露することすら自分に許さない。わからないふりをして、そう自らに思い込ませて、自分の兄がただ単純な意味で兄であることを、自分にも兄自身にも許さない。神さまを持つというのは、きっとそういうことだ。
「眠れそう?」
 少し体温の上がって来た手を握りながら問えば、渉くんは瞼を閉じたまま「たぶん」と頷いた。付けっぱなしのエアコンが部屋に冷えた空気を送る音の上に、身じろぎの衣擦れが覆いかぶさった。彼は少し浅い呼吸をした。枕元のライトを消すと、渉くんの指は少しだけ強く私の手を握った。
「情けないことを、聞いてもいいかな」
 静かな声だった。彼が縋るべきものがほんとうはもうどこにもないことを、いまこの瞬間の渉くんはきっと知っている。彼が、坂川渉(ショウ)という天才と呼ばれなくてもすむ時間はあまりに短くて、あまりに切ない。「うん」と聞こえるように返事をすると、渉くんは二呼吸分の間を置いて、口を開いた。
「裕子にとって、兄さんは、どういうひとだった?」
 それは、難しく考えようとすればいくらでもそうできる問いだった。私にとっての洋くんは、大学は違ったけれど学年は同期の有名人で、純粋に尊敬に値する音楽家で、添い遂げようと誓ったひとの兄で。彼は、私が坂川裕子になったあとも、渉くんの家族がいないところでは私のことを旧姓で呼んだ。渉くんと結婚するまえ、「おまえ、男の趣味悪いよな」とからかうように言われたのをよく覚えている。
「昔、洋くんにね、しょーちゃんのどこが好きなの、って聞かれたことあるんだ」
「……なんて答えたか聞いていい?」
「才能も名声もお金もあるのに、女遊びひとつできない不器用なとこがかわいい、って答えた」
「——はは、意外と、ひどい嫌味を言うんだな」
「そう? 意外かな」
 私が洋くんに恋をすることはありえなかったけれど、彼が自ら命を絶ったと聞いたとき、渉くんの妻としてだけではなく、彼を彼として知っていた人間のひとりとして、私はそれを悲しいことだと思った。渉くんが言うように、彼が死んだことが当たり前だとは思えなかったし、できることならもっと長く生きていてほしかったとも思う。彼の才能も、存在そのものも、私が生きていくうえでは決して必要でも大切でもなかったからこそ、私はそう言える。
「音楽の才能は間違いないのに、性格は悪いし行動も適当だし、どうしようもないところも多かったけど、——私は、いい友だちだったと思ってる」
 私のその、あまりにも月並みな答えを聞いて、渉くんは「そうか」とだけ言った。暗い寝室で、渉くんの表情を読むことはできなかったけれど、声は優しかった。
「それだっていいんじゃないかな、別に」
 その言葉が、渉くんに届いていたかどうかはわからない。瞼を閉じた彼は気付けばゆるやかに寝息を立てていた。明日の朝、この会話をどこまできちんと覚えているのかだって知れない。それでも、こういう夜を渉くんがひとりで過ごさなくていいことを、少しでも幸福だと思ってくれたなら構わなかった。彼の歩かなければならない道に、私は決して寄り添うことができないから、せめて。
 渉くんの肩に毛布を掛け直して、自分も布団に潜り込んだ。私の愛したひとが信じるものが、どうか彼に優しい思い出であってほしいと、祈るくらいは許されるだろうか。自分の身も相手の生命も削りとってしまうような信仰よりは、等身大の心臓に抱える憧憬であればいい。いつか、そう言って笑ってくれれば、いいなと思ってしまうのが私がなにも知ることができないからだとしたって、そうやって愚直に願う凡人が、ひとりくらい彼の横に居たって、きっといいはずだ。
「おやすみ、渉くん」
 聞こえていないのを知りながらかけた言葉はやはり彼の呼吸を動かしはしないまま、音のない暗闇にほんの一時だけ浮かんで、包まれるように消えていった。

2016/8/4 Thu.

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