バナナフィッシュにうってつけの日

 「バナナフィッシュにうってつけの日(A Perfect Day for Bananafish)」は、『ナイン・ストーリーズ(Nine Stories)』に収録された九つの短編の劈頭を飾る作品であり、サリンジャーによるグラース・サーガのはじまりでもある、グラース家の長兄・シーモアの自殺を描いたものとして知られている。シーモアはこの短編のラストシーンで、妻・ミュリエルの寝るベッドの横でピストルで頭を撃ち抜き自殺する。バディをして「わたしたちにとっていっさいのほんもの」と言わしめた、グラース家の絶対的な長兄であり、不世出の天才であり、ほんものの詩人であったシーモア・グラースの死の理由は、サーガ最大の謎として残されている。
  「バナナフィッシュ」そのものの考察に入る前に、グラース・サーガにおいてシーモアが占める立ち位置について考えておきたい。「シーモア—序章—」において、バディは繰り返し、シーモアのことを詩人であると語り、バディ自身は小説家とされている。この区別は重要だ。サリンジャー作品では、詩人と小説家は峻別される。このことは、サリンジャーの初期の中編である「倒錯の森」に登場する、レイ・フォードという名の詩人の台詞から明らかだ。

「詩人は詩を創作するのではないのです——詩人は見つけるのです」特にだれに言うのでもなくそう言った。「聖なるアルフ河の流れている場所というのは」と、彼はゆっくりと付け加えた、「創作されたのではなく、発見されたのです」

「どんな種類の創作性も、僕には耐えられないんです」
                          「倒錯の森」

ここで語られる創作性とは、嘘と言い換えてもよいだろう。小説家が創作を行う(=嘘をつく)ものであるのに対し、詩人は見つけるものである。レイ・フォードにせよ、シーモア・グラースにせよ、サリンジャー作品において詩人と呼ばれるものであれば、その役割は、すでにある聖なるものを見つけることである。それは、あらゆるもののなかに遍在するはずの神性、すなわち「ゾーイー」で語られる〈太っちょのオバサマ(Fat Lady)〉であり、〈倒錯の森〉に隠された〈木の葉〉なのであり、サリンジャー作品の中でもっとも高い価値の置かれる、イノセントな(純粋な)精神性なのであろう。

荒地ではなく
木の葉がすべて地下にある
大きな倒錯の森なのだ
                           「倒錯の森」

 イノセンスを見つけ出すことが詩人の役割なのであれば、それを遂行するには詩人自身がイノセンスの側に属していないといけない。サリンジャー作品において、イノセンスはつねに幼いものの側にある。大人になるということ、世間とうまくやっていき、嘘や嫉妬やセックスを覚えることは、それを失うことと同義だ。上述の「倒錯の森」が収録された、『サリンジャー選集〈第三巻〉倒錯の森(短編集Ⅱ)』(荒地出版社)には、訳者のひとりである渥美昭夫によるサリンジャー初期の短編についての解説が載せられている。そこでは、「倒錯の森」に、トオマス・マンの『トニオ・クレエゲル』に見られる、芸術家は凡庸なものに惹かれるものであるという主題が現れている、という趣旨の論説が触れられている。

——世の中には凡庸性の法悦に対する憧憬を、ほかのいかなる憧憬よりも、さらに甘くさらに味わい甲斐があるように感ずるほど、それほど深刻な、それほど本源的で運命的な芸術生活があるということを。

芸術家は人間になったら、そして感じ始めたら、たちまちもうおしまいだ。
               トオマス・マン 『トニオ・クレエゲル』

 これは、まさにシーモアがミュリエルという徹底的に俗物の側に属する人間と結婚することを選んだことにも当てはまるのではないだろうか。シーモアもまた、詩人であり、芸術家であり、イノセンスの世界に身を置くがゆえに、俗人であるミュリエルに惹かれたのだ。芸術家は凡庸性に強く惹かれる存在であるが、自分自身がその凡庸性に身を堕としては、芸術家としては終わりである。「倒錯の森」のレイ・フォードは、自ら「耐えられない」と評した創作性に満ちた女(バニー・クロフト)に身をやつし、詩人としてのイノセンスを瓦解させる。シーモアはどうだろうか。シーモアがミュリエルとのハネムーンの最中に自殺したということへの答えは、間違いなくこの延長線上に存在するだろう。
 「バナナフィッシュ」に戻ろう。この作品の中で、シーモアは海でシビル・カーペンターという少女に出会い、タイトルにもあるバナナフィッシュの話をする。バナナフィッシュは、バナナがどっさり入った穴の中に入って行き、バナナをたらふく平らげてすっかり肥えて穴から出られなくなり、バナナ熱にかかって死んでしまう、というのがシーモアの言だ。シーモアとともに海で泳ぐシビルは幼い少女であり、上述の前提からすると、イノセンスの側にいると文脈的に期待される存在だ。しかし彼女は、シャロン・リプシャスへの嫉妬をあらわにするし、シーモアに「バナナフィッシュを見た」と噓をつく。瑕疵なきものとしてのイノセンスには、シビルは不適格だ。
 イノセンスを期待されていながらそれを果たせない存在であるシビルとともに描かれるものとして、〈バナナフィッシュ〉は明らかに俗物のメタファーだ。さらに言えば、これはかなり露骨にセックスのメタファーなのだと思う。「バナナフィッシュを見た」と言うシビルは、本来イノセンスの側にあるはずの存在でありながら、嫉妬と嘘とセックスを仮託されている。嫉妬も嘘もセックスも、ここでは大人になることと同義だ。また、シビルという名前が、T.S.エリオットの『荒地』のエピグラフに引用されたペトロニウス『サテュリコン』の「トリマルキオンの宴会」48節に登場する女預言者、クマエのシビュラ(シビル)に由来するというのは有名な解釈である。シビュラは、アポロンから不死を得るが、不老を望み損ねたために老いたまま生きながらえ死を望む。

子供がギリシア語で彼女に「シビュラよ、何が欲しい」と訊くと、彼女はいつも「死にたいの」と答えていたものさ。
                      T.S. エリオット 『荒地』

イノセンスの世界に身を置くはずでありながら、嫉妬と嘘とセックスに身を堕とし、老いに苛まれつつ死を願う存在。この物語の中でシビルの果たす役割は、シーモアを死に追いやる絶望の引き金を引くことではない。シビルそのものがシーモアのメタファーだ。
 ここで、「シーモア—序章—」に立ち返ると、バディはこの「バナナフィッシュにうってつけの日」もバディによる創作であるとかなり明示的に仄めかしている。つまり、ここに描かれているシーモアの死には、バディ的な解釈が多分に含まれているはずだ。そのため、この作品から読み取れるシーモアの死の理由が、ほんものであるという断定はだれにもできないし、バディ自身、この作品を成功だとは評していない。しかし少なくとも、バディがシーモアの死をどう解釈していたか、ということはこの作品から顕に読み取れるだろう。シビルがシーモアのメタファーであるというのもそういう意味だ。シビルはバディが描き出したまったく小説的な存在であって、実際のシーモアの死に関わった少女であると解釈すべきではないのだろう。バディはシビルとシーモアの会話を描くことによって、シーモアが世を去った理由をこの作品の中に描き出そうとしたのだ。そういう意味では、この物語も、「シーモア—序章—」同様、純粋なる物語と言うよりは叙述の一種であるとも捉えられる。
 サリンジャー作品では詩人と小説家が峻別されており、シーモアが詩人であるならバディは小説家だと先述した。バディはグラース兄弟の中では最もシーモアの精神性に近いところにいたと言えるだろうが、それでも詩人にはなれない。彼らが、小説家よりも詩人のほうを上に置いていたのは明らかだ。創作という嘘をある程度許容しつつも、バディは自分の書くものが完全に創作に落ちることは厭んでおり、だからこそ「バナナフィッシュ」が完全な叙述でありえなかったことを悔やんだり、「シーモア—序章—」でほとんど物語の体をとらないような記述を試みたりしたのではないだろうか。フラニーやゾーイーも、俗に自分が落ちること——大人になること——にはある程度の反発を見せつつも、それでもそれらをある程度受け入れてはいる。そういう意味で彼らはほんとうの意味で詩人にはなれない。ほんものの詩人であれるのは、イノセントであるもの、すなわち大人になれないものだけであり、グラース兄弟の中ではシーモアだけだ。
 幼きものとしてのイノセンスは当然のごとく永続しない。これはあらゆるサリンジャー作品に通じる主題だ。

でも少年でも少女でも、いつまでも小さいままではいられないんだよ。——ぼくだってそうだったのさ。小さな少女だったものが、ある日突然口紅をつけるようになる。小さな少年だったものが、ある日とつぜん髭をそり、タバコをふかすようになる。子供でいられる時間なんて短いものなんだよ。
                     「最後の休暇の最後の日」

シーモアについても然り、彼は完全な詩人であるまま生き続けることは許されていなかったのだ。イノセンスの側に属するがゆえに〈凡庸性の法悦〉を憧憬し、凡庸であるもののもつ力に侵されてイノセンスを喪失したその時点が詩人の寿命である。「ハプワース16, 1924」で「ぼく個人は少なくとも手入れの行き届いた電信柱くらい、つまり三十年も生きることになるだろう。」と語る若きシーモアは、そのことには十分自覚的であるように思える。
 ひとはいつか大人にならなければならないし、幼い子どものまま生きながらえることはできない。グラース・サーガ最大の謎とされるシーモアの死もまた、突き詰めればこのひどく単純な主題に帰着するのではないだろうか。シーモアは大人になることができなかった。純粋であること、ほんものであることを求めるグラース家の兄弟たちのなかで、長兄のシーモアに付与された神性の正体はおそらくそこにある。彼らにとってほんものとは常に子どもの側にあるものであり、かつ、それは生きながらえる限りいずれ等しく失うことが運命づけられている美しさなのだ。

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引用は、

 『トニオ・クレエゲル』トオマス・マン著, 実吉捷郎訳, 1952年, 岩波文庫
 『荒地』 T.S.エリオット著, 岩崎宗治訳, 2010年, 岩波文庫
 『サリンジャー選集〈第二巻〉若者たち(短編集Ⅰ)』より「最後の休暇の最後の日」
 『サリンジャー選集〈第三巻〉倒錯の森(短編集Ⅱ)』より「倒錯の森」
 J.D.サリンジャー著, 刈田元司・渥美昭夫訳, 昭和四十三年, 荒地出版社

による。

17.09.07.Thu.

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東堂冴

書評 サリンジャー

「They were made from Glass――グラース姓の子どもたち」 サリンジャー作品(グラース・サーガ)に対する書評です。
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